オルハン・パムック

『わたしの名は紅』より(7)

思いもかけない石の撃打によって頭蓋骨の端がつぶされた時、あの野郎がわたしを殺そうとしているのがわかったものの、まだわたしが死ぬとは思いませんでした。工房と家の間を行き来する地味な生活をしていた時には気がつかなかったのですが、わたしにも夢が…

『わたしの名は紅』より(6)

実は、前回までで『わたしの名は紅』からの訳文検証はいったん中断しようと思っていた。HP、ブログ等で公開されている感想・書評自体は多いのだが、訳文の一部をそのまま抜粋・掲載してあるものはわずかであり、既訳がこれ以上手に入りそうもなかったためで…

『わたしの名は紅』より(5)

黙って、恭しく、身動きもせずに、わたしたちは長い間絵を眺めていた。少しでも動けば、向かいの部屋から来る空気が蝋燭の炎を波打たせて、父の神秘的な絵が動き出すように見えた。父の死の原因となったこれらの絵に魅せられていた。その馬の妙なこと、紅の…

『わたしの名は紅』より(4)

「・・・予言者様の聖遷からちょうど一千年経った時、イスラム暦の一千年目に、ヴェネチア総督の目に、イスタンブルの強力な軍とイスラムの誇りとともに崇高なるオスマン家の力と富を見せて、畏れを抱かせるような本でした。 この世で最も価値のある、一番大…

『わたしの名は紅』より(3)

人殺しにふさわしい二つ目の声をもちました。普段の生活では使わない、この人を馬鹿にしたような悪辣な第二の声で話してみましょう。人殺しにならなかったなら、今も話しているであろう、聞き覚えのある昔の声もときどきは聞くだろうが、その時は「俺は人殺…

『わたしの名は紅』より(2)

この七年間の間に五百六十回譲渡されました。イスタンブルで行ったことのない家、店、市場、モスク、教会、ユダヤ人のシナゴークはありません。歩き回ると、贋金について思ったよりずっと多く噂話が出ているのを、商人たちがわたしの名のもとに嘘っぱちを言…

『わたしの名は紅』より(1)

『アーンティ・ネリー』が思いのほか長引いてしまっている。梗概をまとめきれない私の力量不足(要領の悪さ)以外の何ものでもないのだが、あと残すところ3〜4回で完結する予定である。もし、継続的にご覧くださっている奇特な方がおられるのなら、もう暫く…

『雪』より―雪をめぐる断章【4】

第7章 政治的イスラム主義者など、西欧かぶれの政教分離主義者のつけた名にすぎない―党本部、警察署、ふたたび各通りにて より 目を瞠るほど大粒の雪が、ゆっくりゆっくりと降っていた。 その緩慢さと豊満さ、町の何処からやってくるとも知れぬ仄青い光のな…

『雪』より―雪をめぐる断章【3】

第3章 アッラーの党に一票を―貧困と歴史 より 子供の頃、Kaにとって貧困とは、弁護士の父親と主婦の母親、可愛い妹、正直者の家政婦、家具やラジオやカーテンで出来上がった、ニシャンタシュの中流階級の生活と「家」の境界が途切れ、その外側にある向こ…

『雪』より―雪をめぐる断章【2】

第2章 我が町は平和なところだ―遠く離れた街 より 雪は、都市の汚濁や泥濘、暗部が覆い隠され忘れ去られた後の純真な感情を、常にKaに呼び覚ました。 だがKaは、カルス滞在一日目にして、雪にまつわるこのような無邪気な感覚を失ってしまった。 ここで…

『雪』より―雪をめぐる断章【1】

第1章 雪の静けさ―カルスへの旅立ち より 雪の静けさ―そう考えていた。バスの中で運転手のすぐ後ろに座っていた男は。これが詩の冒頭であったなら、心の内に感じているものを雪の静けさと表現していただろう。 エルズルム発カルス行きのバスに、男はぎりぎ…

翻訳の衝動

著作権の有効な文学作品を、いくら営利目的ではなく、個人的利用のためであるとはいえ、翻訳して一般に公開するのは、明らかな著作権侵害にあたるらしい。 このブログを始める際、実は、そこまでは考えが及んでいなかった。恥ずかしながら。 語学学習・翻訳…

ノーベル賞受賞スピーチ 【父の旅行鞄】−6

父も、おそらく、長年をこの仕事に捧げた作家たちのこの種の幸福を発見したのだろうと、父に先入観を持たないようにしようと、鞄を眺めながら思いました。 さらに、命令し、禁止し、抑圧し、罰を与える平凡な父でなかったこと、私を常に自由にさせてくれ、私…

ノーベル賞受賞スピーチ 【父の旅行鞄】−5

しかし父の鞄から、そしてもちろんイスタンブールの、私たちが暮らしていた生活の褪せた色彩から理解できるように、世界の中心は私たちから遠く離れたところにありました。 この基本的真実を実感することから生まれたチェーホフ派の辺境感覚について、もう一…

ノーベル賞受賞スピーチ 【父の旅行鞄】−4

父は、鞄の中の手帳のほとんどを埋めつくすためにパリに行ったようなものでした。 自分をホテルの部屋に閉じ込め、そうして書いたものをトルコに持ち帰っていたのです。 これがまた私を不愉快にさせたのを、父の鞄を眺めるとき、感じたものでした。 父の鞄を…

ノーベル賞受賞スピーチ 【父の旅行鞄】−3

この、書物を自由自在に読みこなし、唯一自身の良心の声に耳を傾けながら他の者たちの言葉と論争し、そして書物と対話を重ねながら自身の思想と世界を形成した、自由で独立した作家の最初の偉大な例は、もちろん近代文学の先駆者モンテーニュであります。 父…

ノーベル賞受賞スピーチ 【父の旅行鞄】−2

私にとって作家であるということは、人間の内面に潜む第二の個を、その個を形成している世界を、忍耐強く何年もかけて追究し発見することです。 執筆といえばまず、小説でも、詩でも、文学の伝統でもなく、一室に閉じ籠り、机に向かい、ひとりきりで自分の内…

ノーベル賞受賞スピーチ 【父の旅行鞄】−1

『白い城』は小休憩。ここで先の12月7日、ストックホルムで行われたオルハン・パムックの1時間弱に渡ったノーベル賞受賞スピーチの全文を、数回に分けて紹介してみたい。 *原文・写真ともに、2006年12月7日付『ヒュリイェット(Hürriyet)』より…

 『白い城』 【30】 P.71〜73

ホジャとともに過ごした最初の日々を思い出させるこの罰という言葉が、あの頃なぜ彼の頭に取り付いたのか、私には分からない。 ときには、自分が人の言うことをよく聞く大人しい臆病者であるがゆえに、彼に勇気を与えるのではないかと考えることがあった。 …

 『白い城』 【29】 P.68〜71

こうして、二ヶ月の間に、ホジャの人生について11年間では知りえないほどのことを私は知った。 後に私がスルタンとともに出掛けたエディルネで、ホジャと家族は暮らしていた。 父親は随分若くして死んでしまったらしい。ホジャはその顔を覚えているか、覚…

 『白い城』 【28】 P.66〜68

5 まず最初に、兄弟や母親、祖母と一緒に、エンポリの農園で過ごしたあの美しい日々を説明する数頁を書き上げた。 私がなぜ私なのかを理解するために、これらを説明することをなぜ選択したのかは、はっきり言って分からなかった。 おそらく失ってしまったあ…

 『白い城』 【27】 P.63〜65

なぜあなたがあなたなのか私には分からないと答えた後、この問いが、あそこで、私の祖国の、彼らの間で、何度も繰り返されていることを、毎日何度となく繰り返されていることを付け加えた。 これを言いながらも、私の頭の中には、この言葉を裏付けるただひと…

 『白い城』 【26】 P.60〜63

それからの3年間は、我々にとって最悪の年となった。 どの日も、その前の日の、どの月も、過ごしてきたその前の月の、どの季節も、味わってきたそれ以外の季節の、退屈で苛々する繰り返しにすぎなかった。 同じことを、苦痛と失望とともにもう一度経験し、…

 『白い城』 【25】 P.57〜60

この目的をもって、ホジャはまったく新しい本に取り掛かった。 私からアステカ人たちの最期やコルテスの回想について話を聞いた。 彼の頭の中には、学問に敬意を払わなかったために杭に座らされた哀れな少年王の物語が、以前からあった。 その間にもホジャは…

 『白い城』 【24】 P.55〜57

その前の冬、そしてその後の多くの冬同様に、その冬を我々は家で過ごした。 何事も起こらなかった。 寒い夜には、乾いた北東風が扉から煙突から入り込む家の一階で、朝まで座って話し合ったものだった。 ホジャはもはや私のことを見下さなかった。あるいは見…

 『白い城』 【23】 P.53〜55

翌月、我々の想像力の賜物である色鮮やかな動物たちに、少年がどのような反応を示すだろうかと気に掛けながら、ホジャは、宮殿からなぜいまだに呼び出されないのだろうと考えていた。 そこへ、ようやく狩りに呼ばれた。 ホジャはスルタンの傍に、私は遠くか…

 『白い城』 【22】 P.51〜53

4 夏の終わりも近いある日、最高占星学者ヒュセイン候の死体がイスティンイェ海岸*1で発見されたと聞いた。 パシャが殺人鬼のための判決を最後には法官から取り付けると、殺人鬼も隠れ家で安心して留まっていられなくなり、サドゥック・パシャは近々死ぬ。…

 『白い城』 【21】 P.48〜50

真夜中をとうに過ぎた頃、ホジャは部屋から出てきた。 些細な問題に引っかかったために助けを求める生徒の遠慮がちなはにかみと共に、私を部屋の中に、彼の机のすぐ横に呼んだ。 私に、少しのためらいも見せず「助けてくれ」と言った。 「一緒に考えよう。ひ…

 『白い城』 【20】 P.46〜48

私でさえホジャから初めて聞いたこの計画に、スルタンは楽しいおとぎ語を聞くように耳を傾けたという。 馬車で宮殿に戻るとき、もう一度訊いたそうだ。「ライオンはどんな風に産むと思う?」 ホジャは、前もって考えておいたので今度は答えたらしい。 「産ま…

 『白い城』 【19】 P.43〜46

翌日ホジャは部屋に閉じこもって研究を始めた。 数日後、時計と星たちをまたもや馬車に積み込ませ、窓格子の向こうのあの興味丸出しの眼差しの中、子供学校に向かった、今度は。 夕方戻るとホジャはうんざりしていたが、黙り込むほどではなかった。「子供た…