ノーベル賞受賞スピーチ 【父の旅行鞄】−2

 私にとって作家であるということは、人間の内面に潜む第二の個を、その個を形成している世界を、忍耐強く何年もかけて追究し発見することです。 執筆といえばまず、小説でも、詩でも、文学の伝統でもなく、一室に閉じ籠り、机に向かい、ひとりきりで自分の内面を振り返る、そしてこのおかげで言葉を駆使してひとつの新しい世界を創り上げる人間が私の目の前に浮かんできます。 
 この男性、ないし女性は、タイプライターを使っているかもしれません、パソコンの至便性を利用しているかもしれません、あるいは私のように30年も万年筆で紙の上に、手で書いているかもしれません。 書くたびにコーヒー、紅茶を飲み、タバコを吸っているかもしれません。 時には机から立ち上がって窓から外を、通りで遊ぶ子供たちを、運がよければ樹々や風景を、さもなくば薄暗い壁を眺めているかもしれません。 詩、芝居、あるいは私のように小説を書いているかもしれません。 

 
 こうした相違すべては、本来の活動の後、机に向かい、辛抱強く自分の内面を振り返る行為の後にやってくるものなのです。 文章を書くこととは、この内面に向けた眼差しを言葉に置き換えることであり、人間が自分自身の内面を通り抜けながら、ひとつの新しい世界を、忍耐と信念と、そして幸福とともに探求することなのです。 
 空白の頁にゆっくりと新しい言葉を書き連ねながら机に向かうに従い、数日が、数か月が、数年が過ぎ去るに従い、私は、自分の中にひとつの新しい世界を構築してきたのを、自分の内に潜む別の人間を、ちょうど橋やドームを石をひとつひとつ積み上げながら造り上げる者のように出現させてきたのを、私はよく感じたものです。

 私たち作家の石にあたるのは言葉です。 それらを手にとりながら、そのひとつひとつとの関係を感じとりながら、時には遠くから目を遣り仔細に眺めながら、時には指やペンの先端であたかも優しく撫でてやるかのように、その重みを量りながら、言葉を落ち着かせ、落ち着かせ、長年にわたり信念と忍耐と、そして希望をもって新しい世界を私たちは創り上げるのです。


 私にとって作家であるための秘密は、どこから湧いてくるのかまったくはっきりしないインスピレーションにではなく、信念と忍耐にあります。 トルコ語におけるあの素晴らしい表現、“針で井戸を掘る”は、まるで作家たちのために言われたもののように私には思われます。 古いお伽噺にある、愛のために山に穴を掘ったフェルハット*1の辛抱強さが私は好きですし、理解できるのです。
  『私の名は紅』という名の小説で、情熱をもって同じ馬を長年描き続け暗記してしまった、しかも美しい馬を目を閉じてさえ描くことのできるイランの昔の細密画家について語った際、私が作家という職業について、私自身の人生について、同時に語っていたのを知っています。 自分の人生を他人の物語として丹念に語っていくことができるには、この物語る力を自分の内に感じることができるには、私にはこう思われるのですが、作家が机の端で数年をこの美術工芸に辛抱強く費やし、一種の楽天性を身に付ける必要があるのです。

 ある者のところにはまったく訪れない、またある者のところには頻繁に訪れるインスピレーションの天使は、この信頼と楽天性を好み、そして作家が自身を最も孤独に感じる瞬間、その努力や空想、書いたものが、価値あるものからしばしば懐疑へと陥った瞬間、つまりその物語が単に自身の物語に過ぎないと考えた時に、彼の内面から生まれた世界と彼が構築したいと願った世界とを結びつける物語、絵、空想を、彼にあたかもすっと差し出すものなのです。 
 私の全人生を捧げた作家という仕事において、私の心を最も揺り動かした感覚は、私をとてつもなく幸福にするいくつかの文章、空想、頁を、自分自身の力ではなく、なにか別の力が見出し、私に気前よく差し出したのだと考えたことでした。


 私は、父の鞄を開けて手帳を読むのが怖かったのです。 なぜなら、私の陥っている苦悩に、父は決して陥らないだろうことを、父は孤独ではなく友達を、雑踏を、客間を、冗談を、群衆に混じるのを好むことを、私は知っていたからです。

 しかし後に私は、別の考えを持つようになりました。 この思考、難行、忍耐の想像は、私の人生と作家としての経験から導き出した私自身の先入観でもありえると。 雑踏の、家庭生活の、群衆の煌きの中で、幸福なオシャベリの合間に執筆した輝かしい作家も数多く存在していましたし。 
 さらに私の父は、私たちが子供の頃、家庭生活の平凡さに退屈して私たちを後に残し、パリに行ったといいます。 ホテルの部屋で、その他大勢の作家のように、手帳を文字で埋め尽くしたようです。 鞄の中には、その手帳の一部が入っているのを私は知っていました。 なぜなら、鞄を持ってくる何年か前には、父は人生のその時期のことについて私に話して聞かせるようになっていたからです。 私が子供の頃にも、その数年のことをよく話して聞かせてくれましたが、にもかかわらず自身の脆さや、詩人・作家になるという希望、ホテルの部屋におけるアイデンティティの抑圧については決して語ろうとはしませんでした。 パリの歩道でどれほど頻繁にサルトルを見かけたかを説明し、読んだ本、観た映画についても、とても大事なニュースを伝えようとする者のように興奮し、かつ誠意をもって語って聞かせたものでした。


 私が作家である上で、パシャたちや宗教的偉人たちについて語る以上に、世界の作家たちについて語る父が家に居たことの果たした役割は、当然ながら私の頭から消し去ることはできませんでした。 おそらく父の手帳を、私は、このことを考えながら、父の大きなライブラリーにどれほど多くの借りがあるかを思い出しながら、読まねばならなかったのです。 私たちと一緒に暮らしていたとき、父がまさに私のように、部屋にひとりで残り、蔵書と、思考と顔を突き合せていたかったことに、その文章の文学的意図にはあまり重きを置かずに、私は注意を払うべきだったのです。

 しかし、私のできないだろうこともまさにこれであるのを、父の残した鞄をこの懸念とともに眺めながら感じていました。 父はときおり書庫の前でソファーに寝そべり、手にしている本や雑誌をいったん置いて、長いこと思索に、空想に浸っていたものでした。 その顔には、冗談の飛ばし合い、冷やかし、ささいな口論とともに過ぎ去った家庭生活の中で私が見たものとはまったく別の表情、心の内面に向けられた眼差しが表れていました。 このため、とりわけ少年期と青年期の初めの頃には、私は父が不安であることを知り、心配したものでした。
  
 今、何年も後になって、この不安が人を作家に仕立てる基本的な心理的誘因のひとつであることを私は知っています。 作家になるためには、忍耐と苦労以前に、私たちの内に、雑踏から、群衆から、ありふれた日常生活から、誰もが経験する物事から逃がれて、一室に閉じ籠もる衝動がなければなりません。 私たちは、文章によって自分の中にひとつの深遠な世界を構築するためには、忍耐と希望を望むものです。 しかしながら、一室に、蔵書で一杯の部屋に閉じ籠りたいという欲求こそが、私たちを行動に駆り立てる最初のものなのです。

*1:有名な悲恋の物語『フェルハットとシリン(Ferhat ile Şirin)』の主人公で、決して手の届かぬ愛するスルタンの娘と結ばれたい一心で、山に穴を掘り、町に水をもたらした。