『わたしの名は紅』より(6)

 実は、前回までで『わたしの名は紅』からの訳文検証はいったん中断しようと思っていた。HP、ブログ等で公開されている感想・書評自体は多いのだが、訳文の一部をそのまま抜粋・掲載してあるものはわずかであり、既訳がこれ以上手に入りそうもなかったためである。
 ところが、いつも拝見しているブログで、Amazonに「なか見!検索」機能というものがあると知った。いや、常々その文字は目にしていたのだが、それが何かもわからないまま無視していたのだった。(日頃活用してらっしゃる方には、信じられないかもしれないが)
 そこで試しに『わたしの名は紅』を見てみると、第1章がまるまる紹介してあったのだから喜んだ。おかげで、あと二回は掲載できそうである。


 第1章は、作家本人は言うまでもなく、翻訳者にとってももっとも気合の入る部分である。したがって、明らかな誤訳というものは中盤に比べれば少ないのだが、意訳が多くなり、原文の言い回しからかけ離れた言い回しになっている箇所も多々見受けられた。結果的に意味が同じであればかまわない、という考えもあるだろうが、それでは作家の意図を余すところなく表現しているとは言えないのではないだろうか。


 長文が続くが、順番に見ていきたい。(1)で言及した「金貨900枚」以降の部分にあたる。
 以下、第1章 わたしは屍、より (Amazonなか見!検索」参照)


 細密画の写本の装飾だけをしていた。頁の縁に金泥を塗り、その内側に色とりどりの葉、枝、薔薇、花々、小鳥たちを描いたものだ。縮れた中国風の雲、からみあった蔦、色の森、その中に隠れる鹿、ガレー船、スルタン諸侯、樹々、城、馬、狩人・・・以前は皿の中に細密画を描いたこともある。時には鏡の後ろに、木の匙の中に、時にはボスフォラス海峡に面したお屋敷の天井に描いたこともあった。しかし最近は写本の頁の仕事だけをしていた、スルタン様は細密画を描いた写本に大金を下賜くださったから。今となっても、金が無意味だとは言わない。人間というものは死んでからでも、金の価値を知っているのであるから。
 さて今わたしの声を聞いて、この奇蹟をご覧になっておられる皆さんがなにを考えておられるかわかります。

 Yalnızca nakış ve tezhip yapardım; sayfa kenarlarını süsler, çerçeve içine renkler, renkli yapraklar, dallar, güller, çiçekler, kuşlar çizerdim: Kıvrım kıvrım Çin usülü bulutlar, birbirinin içine geçen yapraklar, renk ormanları ve içlerinde gizlenmiş ceylanlar, kadırgalar, padişahlar, ağaçlar, saraylar, atlar, avcılar...Eskiden bazen bir tabak içine nakış yapardım; bazen bir aynanın arkasına, bir kaşığın içine, bazen Boğaziçi’nde bir yalının, bir konağın tavanına, bazen bir sandığın üzerine...Son yıllarda ise yalnızca kitap sayfaları üzerinde çalışıyordum, çünkü Padişahımız çok para veriyordu nakışlı kitaplara. Ölümle karşılaşınca paranın hayatta hiç önemli olmadığını anladım, diyecek değilim. İnsan hayatta değilken bile paranın önemini biliyor.
 Şimdi bu durumumda benim sesimi işitiyor olmanıza, bu mucizeye bakıp şöyle düşüneceğinizi biliyorum: ...

 誤訳というほどではないが、訳抜けが一箇所、端折り訳が三箇所ある。この程度なら意訳の範疇であろうとは思うのだが、作者の言い回し、用語はもれなく日本語にも反映させるよう自分自身が気を遣っているせいか、少々居心地が悪い。
 なかでも「今となっても、金が無意味だとは言わない」という一文は、文意が半分しか反映されていないだけでなく、日本語として見ても納まりが悪いと思うのだが、どうだろうか。



 文の構造は原文に忠実に、少々言葉を補いつつ、こう訳してみた。



 細密画と金泥装飾だけを手がけていた。例えば、頁の縁を額状に飾り、その内側に色を塗り、その上から色とりどりの葉、枝、薔薇、花々、鳥たちを描いた。中国風の渦巻き雲、絡み合った蔦の葉、色彩の森とその中に隠れているカモシカガレー船、スルタン、木々、宮殿、馬、猟師たちを・・・。昔は、ときどき皿の内側に細密画を描いたものだ。ときには鏡の後ろ側や匙の内側にも、ときにはボスフォラス海峡沿いの邸宅や屋敷の天井にも、ときには長持の蓋にも・・・。ここ二、三年はといえば、写本の頁だけを手掛けている。というのも、スルタン陛下が細密画写本に大金を投じてくださるからだ。死に直面してはじめて、金なぞ人生においてはひとつも重要ではないと悟った、などと言うつもりはない。人は、死んだ後でさえ金の重要性を知っているものだ。
 今、このわたしの境遇にもかかわらず、あなたがたがわたしの声を聞いているという事実、この不思議な現象を前にして、あなたがたがこのように考えるだろうことは察しがつく。



 要するに細密画の部門の名人たちの中で、“優美”さんとして知られていたわたしは死んだのです。しかし埋葬されていません。だから霊魂は肉体を完全には離れていないのです。天国あるいは地獄、そのいずれであれ、霊魂がそこへ行けるためには穢れた肉体から出なければなりません。他の人の上にもおこりうるこの特殊な状況はわたしの心を深く苦しめます。頭蓋骨がバラバラになったことも、骨折や傷だらけの体の半分は氷のように冷たい水の中で朽ちるようにも感じないのですが、肉体を抜け出そうとしてもがいている魂の苦しみがわかります。

 Kısaca: Nakkaşlar bölüğünde ve üstatlar arasında Zarif Efendi diye bilinen ben ölüdüm, ama gömürmedim. Bu yüzden de, ruhum gövdemi bütünüyle terk edemedi. Cennet, Cehennem, neresiyse kaderim, ruhumun oralara yaklaşabilmesi için gövdemin pisliğinden çıkabilmesi gerekir. Başkalarının başına da gelen bu istisnai durumum, ruhuma korkunç acılar veriyor. Kafatasımın paramparça olmasını, gövdemin yarısının buz gibi bir suda kırıklar ve yaralar içinde çürümesini duymuyorum da, gövdemi terk etmek için çırpınan ruhumun derin azabını hissediyorum.


 bölükは一群、集団、グループ、団体。一方、「部門」は bölümの訳語だろう。意味が大きくかけ離れているわけではないが、似ているために混同したようだ。
 derin azabıは訳しにくい表現である。そのため翻訳者も単に「苦しみ」と端折ってしまったようだ。derinは深い、 azabı(azap)は「良心の呵責」というときの呵責、責め苦、あの世(地獄)で受ける罰、というような意味がある。満足いく訳ではないが、ここでは「重い呵責」としてみた。




 つまりは、装飾家集団や名匠たちの間で「優雅どの」として知られたわたしは死んだのだ。なのに、まだ埋葬されてない。このせいもあって、わたしの魂は肉体を完全に離れてはいないのだ。天国、地獄、どこであれそれが運命であり、魂がそちら側に近づけるには、肉体の穢れから抜け出さねばならない。他のひとたちにだって起こりうるこのような特異な状況が、わたしの魂に恐ろしいまでの苦痛を与えている。頭蓋骨がバラバラになっていることも、身体の半分が氷のように冷たい水の中で、骨折したまま傷だらけのまま腐っていくことも分からないというのに、肉体を手放そうとしてのたうちまわる魂の重い呵責は感じられるのだ。