『わたしの名は紅』より(2)

この七年間の間に五百六十回譲渡されました。イスタンブルで行ったことのない家、店、市場、モスク、教会、ユダヤ人のシナゴークはありません。歩き回ると、贋金について思ったよりずっと多く噂話が出ているのを、商人たちがわたしの名のもとに嘘っぱちを言っているのを見ました。

お前以外のものは価値がないとか、ひどい奴とか、盲目だとか、お前も金が好きなのだとか、遺憾ながらこの世は金の上に築かれているとか、金で買えない物はないとか、正義漢ではないとか、卑劣漢だとか、絶えず面と向かっていわれました。

ましてわたしが贋物だとわかった者はますます怒ってもっとひどいことをわたしに言ったのです。実際の価値が下がれば下がるほど、目に見えない価値は上がるのです。

このこころない喩えや思慮のない讒言にもかかわらず、大部分の人はわたしを熱愛しています。この愛のない時代にこれほどまでに愛されることは、われわれ全ての喜びだと考えます。


  ―『わたしの名は紅』 第19章より (原文p.123)―
  前回同様、こちらのブログからお借りしました。
  http://elder.tea-nifty.com/blog/cat6620458/index.html

 まずはこちら。

歩き回ると、贋金について思ったよりずっと多く噂話が出ているのを、商人たちがわたしの名のもとに嘘っぱちを言っているのを見ました。

 原文はこちら。

Gezdikçe hakkımda sandığımdan çok daha fazla dedikodu yapıldığını, efsaneler uydurulup yalanlar söylendiğini gördüm.


 「贋金について」とあるが、この語り手は贋金本人なので、「わたしについて」としないと読者が混乱するだろう。
 「商人たちがわたしの名のもとに」は明らかな勘違い。efsane(伝説、言い伝え) とesnaf(商人、小売商)を取り違えたのであろう。efsaneler uydurulupで「伝説がつくり上げられ」となる。



よってここは、こんな風に訳してみた。



  出回るにつれ、考えていた以上にわたしについて陰口が叩かれるのを、伝説が作り上げられ、嘘が語られるのを経験しました。



 次に、この箇所。

実際の価値が下がれば下がるほど、目に見えない価値は上がるのです。
このこころない喩えや思慮のない讒言にもかかわらず、大部分の人はわたしを熱愛しています。この愛のない時代にこれほどまでに愛されることは、われわれ全ての喜びだと考えます。

 原文はこちら。

Hakiki değerim düştükçe mecazi değerim artıyordu. Ama bütün bu acımasız mecazlara, düşüncesiz iftiralara rağmen, gördüm ki ahalinin büyük bir çoğunluğu beni içten bir tutkuyla seviyor. Bu sevgisiz zamanda, bu derece gönülden, hatta taşkın bir sevginin hepimizi sevindirmesi gereken bir şey olduğunu düşünüyorum.


 hakikiは本物の、真の、本当の、mecaziは比喩的な、隠喩的な、という意味である。
 つまりここでは、貨幣としての価値が下がるほど、比喩的な価値、比喩の対象としての価値は高くなるということになる。「目に見えない」と意訳してしまうのが果たして相応しいかどうかは分からぬが、前文で列挙されたさまざまな比喩を受け、次の文の冒頭、bu acımasız mecazlarこの情け容赦のない比喩、という表現に引き継がれているので、ここは素直に「比喩的な価値」とするのが適当かと思う。


 そして、この部分。

 Bu sevgisiz zamanda, bu derece gönülden, hatta taşkın bir sevginin hepimizi sevindirmesi gereken bir şey olduğunu düşünüyorum.

 この愛のない時代にこれほどまでに愛されることは、われわれ全ての喜びだと考えます。


となっているが、端折られたせいでニュアンスが変わってしまっているようだ。ここも原文に忠実に訳すべきだろう。



 以上を踏まえ、このように訳してみた。



  実際の価値が下がっていくたび、比喩的な価値は上がっていきました。しかしこのような情け容赦のない比喩や分別のない誹謗中傷にもかかわらず、わたしの見たところ、市民の大部分は心底わたしのことを熱愛しているのです。このような愛のない時代にあっては、これほどまでに心からの、しかも溢れる愛情こそが、わたしたち皆を喜ばせる必要のあるものだと思うのです。