トルコ語こそ「頭から訳す」


ここまで6回にわたり、オルハン・パムック『白い城』邦訳「序」部分で発見した、あくまでも私見による問題点を指摘してきた。これに関しては、「いずれも些細な問題であり、翻訳者の裁量の範囲内だ。読みやすく美しい日本語になっているからこれで結構」と反論されたい方々もきっといらっしゃるに違いない。結構は結構なのだが・・・。

自分自身、意識してはいなかったが、自分の抱いている失望感、違和感をうまく説明する論理を心の内では探していたのだろう。偶然、目に飛び込んできたIT翻訳をされている方のブログで「そうそう、これだった」と思い出すことができた。それは近年、翻訳(特に英文和訳)の世界で主流となってきた「頭から訳す」という手法である。


主語、述語、目的語、被修飾語、修飾語等の語順が日本語と異なる英語を和訳するに当たっては、学校教育の場はもちろん翻訳の世界でも、本来の語順を無視し、文法構造を明確にするために「後ろから前に訳す」という方法をとるのが伝統的であった。しかし最近の翻訳界では、原文における思考の流れを明確化するために、直読直訳、つまり読んだ通りに訳す、語順通りに頭から訳す、という手法がより評価されているのである。

主語-目的語-述語、あるいは修飾語-被修飾語の語順が日本語とまったく変わらないトルコ語の場合、それこそ「直読直訳」すればそのまま日本語になる。苦労、工夫して語順を変える必要などないばかりか、作者の思考の流れや語り口を忠実に伝えるためには、「頭から訳す」のが王道だと思う。トルコ語こそ「頭から訳す」べきなのである。


私にこの思考法を思い出させてくれたブログから、重要と思われる部分を抜粋させていただきご紹介したいと思う。(太線は筆者)

たとえば、「I'm waiting ...」「I'm watching ...」を、「…をぼくは待ってる」「…をぼくは見ている」とせずに、「ぼくは待ってる。…を」「ぼくは見ている。…を」としたのは、「スラッシュ・リーディング」とか「頭から訳す」と呼ばれる手法の応用である。
 この手法には、同時通訳などの際に文章を最後まで聞かなくても翻訳を開始できるとか、修飾語と被修飾語が離れすぎないので読みやすい文章になるなどの、ある種実際的な利点だけでなく、もっと翻訳にとって本質的な利点がある。それは、原文の語順を尊重しやすいということだ。

 古典的な「英文解釈」では、英語の文法構造をできるだけ忠実に日本語の文法構造に置き換えることが、「正しい」翻訳とされてきた。けれども、最近の認知意味論や語用論なんかでは、文意を伝えるために、文法構造だけでなく語順も重要な役割を果たしていることが注目されているようだ。

なお宮下両氏の訳文で、もうひとつ違和感を抱いている点が実はある。それに関しても、このブログの筆者は私と同じ思考をされており、私はまるで味方を見つけたような気がしてほっと安心した。(太線は筆者)

訳語に関しては、なるべく気取らない平凡な訳語を意識的に選択するように努めた。翻訳者にありがちな悪癖として、つい高級そうな文語・雅語を多用したがる傾向がある。これには、自分が言葉を知らないと思われたくないとか、自分がいかに言葉を知っているかをひけらかしたいとか、なんとなくそのほうが訳文カッコよく見えるといった理由があると思われるが、言うまでもなく、平易な文章はできるだけ平易に訳すことが正しい。