ノーベル賞受賞スピーチ 【父の旅行鞄】−4

 父は、鞄の中の手帳のほとんどを埋めつくすためにパリに行ったようなものでした。 自分をホテルの部屋に閉じ込め、そうして書いたものをトルコに持ち帰っていたのです。 これがまた私を不愉快にさせたのを、父の鞄を眺めるとき、感じたものでした。

 父の鞄を眺めながら、25年間、トルコで作家として生き残れるよう自分自身を一室に閉じ込めた挙句、作家という仕事が私たちの内面から生まれてきたものであるかのように執筆することが、社会から、国家から、国民から、隠れて行われるべき仕事であることに対し、私はとうに反発を抑えられなくなっていました。 おそらく私は、ほとんどこれが原因で、作家の仕事を私ほどに重視していないといって父に怒っていたのです。

 本当をいうと、父が私のような人生を生きなかったために、何に対しても小さな衝突さえよしとせず、社会の中で、友や愛すべき者たちと笑い合いながら幸福とともに生きたために、私は父に対し怒っていたのです。 しかし、“怒っていた”という代わりに“妬んでいた”と言うことができるのを、おそらくこちらの方がより正しい言葉遣いだろうということを、頭の片側では分かっていて、私は不愉快になっていたのです。

 
 そのとき、いつもの冷やかしと怒りの混じった声で、私は自分自身に「幸福とは何なのか?」と問うていました。 唯ひとり、一室で、深長な人生を生きているのだと感じることでしょうか、幸福とは?  でなければ、群衆と、皆と同じ物事を信じながら、信じているような振りをしながら、気楽な人生を送ることでしょうか? 皆と同調しながら生きているように見えつつも、もう一方では誰も見たことのないある場所で、密かに文章を書くのが幸福なのでしょうか、本当は? それともそれは不幸なのでしょうか? 
 
 しかしこれらは、あまりに性急で怒りっぽい質問でした。 しかも、良き人生の尺度が幸福であることを、私はいったいどこから導き出したのでしょう?  人、新聞、皆が皆、最も大事な人生の尺度が幸福であるかのように振舞っていました。 これだけでも、その正反対が真実であることを、追究に値するひとつのテーマにまで至らしめないでしょうか? 第一、私たちから、家族から常に逃避していた父のことを私はどれほど知り、父の諸々の不安をどれほど目にすることができたというのでしょう?


 父の鞄を、こうしてこの衝動とともに私は開けたのでした、まずは。 父の人生で私が知らなかった不幸とは、文章に吐露することでどうにか耐えうるような秘密だったのでしょうか?

 鞄を開けるとすぐに、旅行鞄の匂いを私は思い出しました。 手帳のうち何冊かは知っていたのを、父がその手帳にそれほど拘ることなく、私に何年も前に見せたことがあったのに気付きました。 一冊ずつ手に取ってめくってみた手帳のほとんどは、父が私たちを後に残してパリに行った青年時代に手に入れたものでした。

 それでも私は、まるでお気に入りの作家の伝記を読むように、父が私の年齢のときに何を書いていたのか、何を考えていたのかを知りたかったのです。 当分このようなものにめぐり合うことはないだろうことも分かっていました。 さらにこの間にも、私は、父の手帳のそこここで出くわした作家の声に居心地の悪さを感じていました。 この声は父の声ではない、と思っていました。 本物ではありませんでした。 あるいは私が本物の父だと知っている人物の声ではなかったのです、この声は。


 父が、執筆するときには父でなくなるというような不安を掻き立てるもの以上に、ずっと重大な恐れがありました、ここには。 すなわち、私の中の自分が本物ではないことへの恐れが、父の文章が私には良く思えないことへの不安、さらには、父が他の作家たちから多大の影響を受けているのをこの目で見る恐れを通り越して、とりわけ、私が青年時代にそうだったように、私の存在、人生、書く願望、自分の書いたものなどすべてを、私に問い質す真実性の危機へと姿を変えていたのです。

 小説を書き始めた最初の10年は、この恐れを心のずっと奥底で感じていて、それに立ち向かうことに苦心し、ちょうど絵を描くことを断念したように、いつか敗北を喫し、小説を書くことをもこの懐疑によって投げ出すのではないかと、ときどき恐れたものでした。


 蓋を閉じて持ち上げた鞄が、私に短い間に目覚めさせたふたつの基本的感覚を、急いで説明させていただきました。 つまり、辺境に居るという感覚と、本物でありうることへの懐疑を。  
 もちろんこれは、私が、この不安を掻き立てる感覚を深めるに、初めての生き方ではありませんでした。 私はこれらの感覚を、広範性と、副次的な結果と、神経の先端と、心の内の錯綜と、そして多種多様の色彩との、それらすべてによって、何年もかけて読んでは書き、自分自身、机の端で追究し、発見し、深めてきたのです。 当然のように、それらを私は、目に見えぬ苦痛と、気分を台無しにしがちな感受性と、しばしば人生と蔵書から私に感染した知性の混乱として、とりわけ青年時代に何度も経験しました。 しかし、辺境に居るという感覚と、本物でありうることへの懐疑とは、それらに関する小説、作品(例えば、辺境性については、『雪』と『イスタンブール』、真贋性への懐疑については、『私の名は紅』か『黒い本』)を書くことによってはじめて、全体として知ることができたのです。

 私にとって作家になるということは、私たちが心の内に抱えているもの、最も多く抱えていながら私たちが少ししか気付いていない隠された傷に焦点を当て、それらを辛抱強く発見し、知り、十分に表しきること、そしてこの傷と苦痛を、私たちが意識的に守護者となっている文章とアイデンティティーの一部という状態にまで持ってくることなのです。

 誰もが知っているが、知っているとは知らない物事を表現することなのです、作家の仕事とは。 この知識の発見と、それが発展させられ共有されるべき読者に、お馴染みの世界を驚嘆しつつ散策する愉しみを与えるものなのです。 この愉しみは、私たちのよく知っている物事の真実性全体とともに、それが文章に反映される際の技術からも、当然のことながら得ることができます。
 
 一室に閉じ籠り、長年にわたって技術を磨き、ひとつの世界を構築しようと努める作家は、自身の隠された傷から出発する際、知ってか知らずか、人間存在に深い信頼を示したことにもなります。 他の人たちもこの傷とよく似た傷を負っていること、これがために理解してもらえるだろうこと、人は互いに似通っていることに対して感じる信頼を、私は常に抱いてきました。
 真の文学はいずれも、人が互いに似通っていることに関する子供っぽく楽天的な信頼に上に成り立っているものです。 部屋に閉じ籠り、長年にわたって執筆を続ける者は、こうして、このような人間性と、中心とはなりえない世界に対し、声を発したいと望むものなのです。