翻訳の衝動


 著作権の有効な文学作品を、いくら営利目的ではなく、個人的利用のためであるとはいえ、翻訳して一般に公開するのは、明らかな著作権侵害にあたるらしい。
 

 このブログを始める際、実は、そこまでは考えが及んでいなかった。恥ずかしながら。 語学学習・翻訳をテーマとしたブログは山のようにあり、出処・出典が新聞、実用書、小説などの違いはあれ、多くのブロガーがかなり気軽に翻訳を試み、それを自身のブログ上に公開していたのを目にして、我もと気軽に始めてみたのだった。

 オルハン・パムックの『白い城』を公開し続け、すでに3分の1まできたところで、「さすがにこれはヤバイのでは」と冷や汗を掻きはじめた。 ならば、過去ログをきれいサッパリと削除してしまえばいいのだろうが、非公開にするだけだとしても、今まで苦心して翻訳した文章をバッサリ削除してしまっては、ブログの存在そのものが希薄になる。 「確信犯」といわれようと、どうにも忍びない。

 そうとはいえ、このまま、今後とも同じやり方を続けるわけにもいかない。 ブログの更新が留まっていたのは、どうすべきかと逡巡しつつも、いったん始めた翻訳の習慣を断ち切らないために、ひそかに『白い城』の校正を進めたり、ヤシャル・ケマル(Yaşar Kemal)の短編集『黄色い熱さ(Sarı Sıcak)』を目に付いた箇所から読んでは翻訳してみたり、オルハン・パムックの『雪(Kar)』を読み進めたりしながら、日々を過ごしていたからである。 


 ブログに公開するには、真剣に訳文を練り上げ、少なくとも現時点の自分の能力で最高というレベルにまで完成させねばならない。 この緊張感が、翻訳の勉強にはどうしても欲しかった。 第三者の「目」が欲しかったのだ。 日本の翻訳会社の多くが英語メインという状況で、トライアル制度の対象から外れる土日翻訳者候補としては、何らかのかたちで第三者、読者を意識する練習を繰り返さなかったら、中途半端な訳文に自己満足するだけで上達は覚束ないに違いない、そんな焦燥感に駆られてしまうのである。 
 翻訳の経験を積むチャンスさえ翻訳会社から与えられない「未経験」の翻訳者候補の、単なる言い訳にすぎないかもしれないが。


 ともかく、こうして、著作権の問題が目の上で瘤のように膨れてくると、自分の内に湧き上がってくる翻訳への衝動を、外へ向かって解放せず、当分は自分の内に留めておこうと思うようになった。

 ところが、昨年末からようやく腰を上げ読み始めたオルハン・パムック『雪』に、今また翻訳の衝動を掻き立てられている。 
『白い城』にもその片鱗は見られたが、『雪』はもはや、小説というより「戯曲」というに相応しい。 語り口は滑らかで滞りがなく、ひとつひとつの情景、会話、小道具が映像のような現実味を持って、しっかりと描かれている。 『白い城』に見られた表現の未熟さ、無駄な冗長さ、リアリティの不足感は姿を消し、自身の足と目を駆使して行った取材の上に成り立つ、リアリズムに徹したディティール構成と、息もつかせぬ絶妙なストーリー・テーリングが相俟った、優れた映像作品のごとき小説に仕上がっているのである。

 私のいう翻訳の衝動とは、外国語で味わっている世界を、自分の母語である日本語で、自分自身の言葉で、もう一度味わい、噛み砕き、呑み込み、消化したいという反射的欲求である。口の中に入った食事の一片は、意識せずとも、たいてい本能的に飲み下されるものだが、ときおり「うーん、うまい!」と唸って一瞬咀嚼が止まるような経験が誰しもあるだろう。一瞬、顎の動きが止まった後、もう一度ゆっくりと顎が動き出す頃には、鋭敏になった味覚によって、そのなんともいえぬ風味と舌触りを自分なりに解釈しようと努めているはずである。
 
 『雪』の中で私が、自分の言葉でもう一度咀嚼したいという衝動に駆られる部分は、たいがい、雪をめぐる断章である。これほどに雪が、深遠な意味を持って描かれた小説には、出会ったことがなかった。

 日本では翻訳出版済みの作品であるため、別の訳文を公開することが著作権・翻訳権保護のうえで相応しくないのは重々承知しているが、次回以降、私のそのような衝動の対象となった断章を、少しずつ訳していけたらと思っている。

 私にとってそれは、ひとえに『雪』へのオマージュなのである。






*つい先日、『雪』の映画化の計画が持ち上がっていたことを知った。
 監督は、パムックの著作を読んで以前から映画化を持ちかけていた、トルコ出身でローマ在住の映画監督フェルザン・オズペテック(Ferzan Özpetek)である。オズペテックの作品はパムック自身も気に入っているらしく、両者は以前から何度か映画化をめぐって会見を行ってきたようだ。
 が、数日前、ローマでオズペテックと行われた会見の結果、「映画化は難しい」として断念し、計画を白紙に戻したことが発表された。パムックの言によれば、「ふたりとも完璧主義者で、決め事が好きな堅物で、意地が悪いので、プロジェクトが始まってもすぐに見解の相違から干渉しあうだろう」とのこと。
 フェルザン・オズペテックの代表作には『向かいの窓(Karşı Pencere/La Finestra di Fronte)』『聖なる心(Kutsal Yürek/Cuore Sacro)』などがあり、トルコでも上映され話題となったのだが、残念ながら、私はいまだ鑑賞する機会に恵まれていない。が、想像するに、パムックの求める質感はオズペテッキには求められないことが分かったのだろう。
 私の感じ取った『雪』の世界は冷徹で硬質、だが凍てつく寒さを雪の湿度と人の息づかいが和らげている。静寂の中に饒舌があり、どれほどの饒舌さもたちまち静寂の中に飲み込まれてしまうような、それほどの静寂が満ちている。画面を占める色は、雪=純白と、イペッキ(絹)=乳白色と、ラージヴェルト(紺色)の目の濃紺に近い青と、雪雲・Kaのコート・ロシア風建築の灰色である。
 この世界を表現できる監督を、強いてトルコ人の中から選ぶとすれば、ヌーリ・ビルゲ・ジェイラン(Nuri Bilge Ceylan)以外にありえないだろう。『遠(Uzak)』で描いた、雪に閉じ込められた無人イスタンブール、その寂寥感、画面を占める色彩は、白と灰色、濃灰色、アイスブルーだけである。
 オズペテック以上に、ひと癖もふた癖もありそうなボヘミアンのヌーリ・ビルゲ・ジェイランと、パムックがうまくやっていけるとは、到底思えないのではあるが・・・・。