ノーベル賞受賞スピーチ 【父の旅行鞄】−6

 父も、おそらく、長年をこの仕事に捧げた作家たちのこの種の幸福を発見したのだろうと、父に先入観を持たないようにしようと、鞄を眺めながら思いました。 さらに、命令し、禁止し、抑圧し、罰を与える平凡な父でなかったこと、私を常に自由にさせてくれ、私に常に普通以上の敬意を示してくれたことに対しても、感謝していました。 少年時代と青年時代の友達の多くとは違って、私は父親の怖さを知らなかったため、自分の想像力は時によって自由にまたは子供のように働くことができると時に信じていましたし、また時には父が青年時代に作家になりたかったために私も作家になることができたのだと、心底考えたのでした。 ホテルの部屋で父が書いたものを、私は寛容の心で読むべきだし、それを理解すべきだったのです。


 父が置いていった場所で何日もそのままになっていた鞄を、私はこの楽天的な考えとともに開けました。 そして、手帳のうち何冊か、何頁かを全精力を使って読んだのです。


 父は何を書いたのでしょう? 
 パリのホテルの幻影を覚えています。 詩が少し、逆説が少しと、頭の運動。 交通事故に遭った後で、自分の身に降りかかったことをやっとこさ思い出す、無理強いされたとしても多くは思い出したがらない人のように、今、自分自身を感じるのです。


 子供の頃、母と父のあいだに喧嘩が始まったとき、つまりあの致命的な沈黙のうちのひとつが始まったとき、父が雰囲気を変えるためにすぐにラジオを点けると、音楽が私たちにそこで起こったことをたちまち忘れさせてくれたものでした。
 私も、それに似た音楽効果があり、気に入っていただけそうなひとつ、ふたつの言葉とともに、話題を変えるとしましょう!


 皆さんがご存知のように、私たち作家に最も問いかけられる、最も好まれている質問はこうです。 なぜ、あなたは書くのですか?


 心の底から湧きあがってくるから、書くのです! 
 他の人のように、普通の仕事に就けないから書くのです。 
 私が書いている通りに作品が出来上がってくれと、そしたらそれを読んでやろうと、書くのです。 
 皆さんに、すべての人に、とっても腹を立てているから書くのです。 
 一室で、一日中座って書くのがとても気に入っているから書くのです。
 現実を変えることで、なんとかそれに耐えられるから書くのです。
 私、他の人々、私たち全員、私どもが、イスタンブールで、トルコで、どのような人生を送ったか、送っているか、全世界に知ってもらおうと、書くのです。 
 紙の、ペンの、インクの匂いが好きだから書くのです。
 文学を、小説芸術を、なによりも信じているから書くのです。 
 ひとつの習慣であり、情熱の対象だから書くのです。 
 忘れ去られることを恐れるがゆえに書くのです。 
 私に寄せられる評判と関心が気に入っているから書くのです。 
 ひとりきりになるために書くのです。 
 皆さんに、すべての人に、私がなぜあれほどまでに腹を立てたのか、たぶん理解できるだろうと書くのです。 
 読んでもらうことを気に入っているから書くのです。 
 いったん書き始めたその小説を、この文章を、その頁を、もはや書き上げてしまおうと、書くのです。 
 皆がこれを待っているのだからと、書くのです。 
 図書館の不朽性と、私の作品が書棚に納まっていることを子供っぽく信じているから、書くのです。 
 人生、世界、あらゆるものが、信じられないほどに素晴らしく、驚嘆させられるがために、書くのです。 
 人生の素晴らしさと豊かさすべてを、言葉に置き換えることが愉しいから書くのです。 
 物語を語って聞かせるためではなく、物語を創りあげるために書くのです。 
 常に行き着くべき場所があるかのような、そしてまさにひとつの夢のように、そこには決して辿り着けないかのような感覚から逃れるために、書くのです。 
 どうやっても幸せになれないがために書くのです。 
 幸せになるために書くのです。


 私の仕事場を訪れ、鞄を置き去りにしてから一週間後、父はいつものようにチョコレートの包み(私が48歳にもなっていることを父は忘れていました)を手にし、私を再び訪ねてきました。 いつものように、またもや人生や政治の話、家族の噂話をしては笑いあいました。 一瞬、父の目は鞄を置いた一角に向けられ、そして私が鞄をそこから動かしたのを父は知ったのです。 私たちの目が合いました。

 息詰まる、羞恥を掻き立てる沈黙が訪れました。 私は父に、鞄を開けて中のものを読もうとしたことは言わず、目をそらせました。 だが、父はそれで理解したのです。 私も父が理解したことを理解しました。 父もまた、私が父の理解したことを理解したことを理解したのでした。 この相互理解は数秒間続き、それ以上長引くことはありませんでした。

 なぜなら、父は自分に自信を持つ、気楽で幸せな人でしたから。 いつも通り父は破顔一笑し、そして家から出て行くとき、始終、私にかけてくれる優しく勇気づける言葉を、ひとりの父親のようにまた繰り返しました。
 いつものように、父の幸福を、苦悩も心配もない立場を妬みながら、私は父の後姿を眺めました。 しかしあの日、私の中で、恥ずかしくなるほどの幸福のさざめきが広がったのを覚えています。 たぶん私は父ほどには気楽ではない、私は父のように安楽で幸福な人生は送ってこなかった、しかし、私が父の文章を正当に評価したのだという感情は、あなた方もお分かりになったでしょう。 
 このことを父に向かい合って感じていたために、私は恥ずかしかったのです。 そのうえ父は、私の人生を抑圧する中心になることもなく、私を自由にさせてくれたのです。 
 これらすべてのことは、執筆と文学、人生の中心にある不足感とならんで、幸福感と罪悪感とに奥深いところで繋がっていることを、私たちに思い出させるべきものなのです。


 しかし、私にもっとずっと深い罪悪感を呼びさました、私の物語の対称形が、あの日たちまちにして私が思い出した物語の片割れがあるのです。 父が鞄を私のもとに置いていった日より23年も前、私が22歳のとき、すべてを擲って小説家になることを決心し、自分を部屋に閉じ込め、4年後に最初の小説『ジェブデット氏と息子たち』を書き上げた私は、父に読ませようと、そしてどう思うか言ってもらおうと、まだ出版されていなかったその作品のタイプ打ち原稿のコピーを震える手で父に渡したのです。 単に父の趣味と洞察力を信頼していただけではなく、母と違って父が、私が作家になることに反対しなかったこともあって、父の同意を得ることは私には大事なことだったのです。 その頃、父は私たちと一緒には暮らしておらず、遠くに行っていました。 父の帰りを私は、じれったいほど待ちました。 2週間後、父が帰ると、私は走っていってドアを開けました。
 

 父は何も言いませんでした。が、すぐに私をあまりに強く抱きしめたので、作品をとても気に入ってくれたのが分かりました。 しばらくの間、私たちは、感極まった瞬間に表れる一種の不器用さと沈黙の発作に見舞われました。 そのあとで少し落ち着き会話を始めると、父は、私にあるいは私の最初の作品に対する自分の信頼を、異常なまでの興奮と大袈裟な言葉で表現し、そして、本日、大きな幸福感とともに受け取らせていただくこの賞を、いつの日か私が受賞するだろうと、父はそれほどに強調したのでした。

 この言葉を父は、それを信じる以上に、あるいはこの賞をひとつの目標として示すこと以上に、息子を支持するため、勇気づけるため、「お前はいつかパシャになるんだぞ!」と声をかけるトルコ的父親のように言ったのだと思います。 何年ものあいだ、私と顔を合わせるたび、父は私を励ますため、この言葉を繰り返し続けました。

 
 父は、2002年12月に亡くなりました。


 私にこの偉大なる賞を、この名誉を授けてくださったスウェーデン・アカデミーの御会員の皆様、御来賓の皆様。 本日、父が私たちに同席してくれることを、私は心から願っていたのです。■