ノーベル賞受賞スピーチ 【父の旅行鞄】−1

スピーチ中のオルハン・パムック





 『白い城』は小休憩。ここで先の12月7日、ストックホルムで行われたオルハン・パムックの1時間弱に渡ったノーベル賞受賞スピーチの全文を、数回に分けて紹介してみたい。





 *原文・写真ともに、2006年12月7日付『ヒュリイェット(Hürriyet)』より引用。
http://www.hurriyet.com.tr/dunya/5573561.asp?gid=112&srid=3428&oid=3&l=1




■父の旅行鞄



 死の二年前、父は自分の書いた文章、手記や手帳で一杯の小さな旅行鞄を私にくれました。 いつもの冗談好き、皮肉屋の雰囲気を漂わせながら、自分の後、つまり死んだ後にそれらを読んで欲しいと言いました。


 「まあ、見てくれ。どんなもんか」と言いました。かすかに恥ずかしがりながら。 「仕事に役立つものが中にあるか。たぶん私の(死んだ)後に選んで、出版できるだろうよ。」


 私たちは、私の仕事場で、蔵書に取り囲まれていました。 父は、苦痛を強いるかなり特殊な重荷から逃れたいと欲する者のように、鞄をどこに置くべきか見当もつかぬまま、仕事場のあちこちを見回しながら歩き回りました。 それから手にしている物を、注意を惹かないような一角にそっと置きました。 私たちふたりともきまりを悪くしたこの忘れえぬ瞬間が過ぎるや否や、いつもの役割へと、人生を斜に眺める、冗談好き、皮肉屋の私たち自身に戻って一息つきました。 いつもの如く、あれだのこれだの、人生だの、トルコの尽きえぬ政治的苦悩だの、大部分が失敗に終わった父の事業だのについて、さほど悲しみもせずに話し合いました。


 父が去った後、私は、鞄の周りで二、三日、それには一切手を触れずに、行ったり来たりを繰り返したのを覚えています。 小さな、黒い、皮製の鞄。その錠を、その丸い縁を、それはもう子供の頃からよく知っていました。 父は、短い旅行に出掛ける際、ときには家から仕事場に荷物を運ぶ際にも、それをよく携えました。 子供の頃、この小さな鞄を開け、旅行から帰ってきた父の身の回り品を引っ掻き回したのを、中から出て来たコロンや外国の匂いが気に入っていたのを私は覚えていました。

 この鞄は私にとって、過去の、そして子供時代の思い出の多くが詰まった、お馴染みで心惹かれる品でした。 しかし、その時はそれに手をつけることさえできませんでした。なぜでしょう? 当然のことながら、鞄の中に隠された荷物の不可思議な重さのせいなのです。


 この重さの意味を今から説明しましょう。 一室に閉じ籠り、机に向かい、隅の方に縮こまり、紙とペンで自分のことを語ろうという人間のやることの、つまり文学の意味なのです、つまりこれは。


 父の鞄に触れはしても、それを開けることはどうしてもできませんでした。 しかし、中にある手帳のうち何冊かは私も知っていました。それらに父が何かを書き付けているのを私は見たことがあったのです。

 鞄の中の荷物は、私にとって初めて耳にするものではありませんでした。 父には大きなライブラリーがありました。 青年時代、1940年代末のことですが、父はイスタンブールで詩人になりたかったといいます。 ヴァレリートルコ語に翻訳したそうですが、読者は少なく、貧しいこの国で詩を書き、文学で生計を立てる困難を味わいたくなかったのだそうです。 祖父―父の父は、裕福なビジネスマンでした。 父は気楽な少年期、青年期を過ごしたらしく、文学のため文筆のため面倒を引き起こしたくなかったのです。 父は人生を、そのありとあらゆる美しさによって愛していたのです。それを私も理解していました。

 私を父の鞄の中身から遠ざけた第一の心配は、もちろん読んだものが気に入らないのではないかという恐れでした。 父もこれを知っていたために警戒したのでしょう、鞄の中身を重く見ていないような雰囲気を醸し出していました。
 25年間の作家生活の後にこれを目にすることは、私を悲しませました。 しかし、父が文学をじゅうぶん重要視していないからといって父に腹を立てることまではしたくありませんでした。 本当に私が恐れたのは、知ること、見知ることさえ私が望まなかった本当のところは、父が優れた作家である可能性にありました。 父の鞄を、本当はこれを恐れたために開けられなかったのです。 しかもその理由は、私自身にもはっきりとは言えないほどでした。

 なぜなら、父の鞄から実際に、偉大な文学が飛び出したとしたら、私は父の中にまったく別の男性が存在しているのを認めざるをえなかったのですから。 これは恐ろしいことでした。 というのも、私は、あの歳においてさえ、父は単なる私の父であって欲しかったのです。作家などではなくて。