新訳『わたしの名は赤』より(2)


§哲学的命題は哲学的であれ。概念はあくまで概念的であれ


細密画の奥義を語るこの部分。本作品の中でも最も哲学的、概念的な表現が続く箇所である。

Nakıştan önce bir karanlık vardı ve nakıştan sonra da bir karanlık olacak. Boyalarımızla, hünerimiz ve aşkımızla Allah’ın bize, görün, dediğini hatırlarız. Hatırlamak gördüğünü bilmektir. [Bilmek, gördüğünü hatırlamaktır.] Görmek, hatırlamadan bilmektir. Demek ki nakşetmek karanlığı hatırlamaktır. ([Benim Adım Kırmızı] p.91-92)


まず宮下訳を見てみよう。

細密画がはじまる前、ただ闇があった。よって細密画が無くなったのちもまた、闇が訪れることだろう。そしてわれわれ絵師は絵具と技、そして情熱をもって神が「見よ」仰ったものの記憶を呼び起こす。この追想するという営みは、見たものを知覚するということである。一方、見るという営みは、記憶せずにただ知るということである。すなわち画芸とは、闇を想起するということに他ならない。(宮下遼訳『わたしの名は赤』(P.166))※原文中の[]括弧の箇所が訳抜け


最初の一文。「細密画がはじまる前無くなったのち」とある。この文は「細密画以前/以後」「細密画がこの世に誕生する前/この世から消え去った後」のように、単に歴史的推移、時間的経過を表していると解釈していいものだろうか。


わたしが思うに、この一文は必ずしも時間的推移を表すものではない。細密画は盲目の絵師によって描かれる、あるいは描き続けた末に絵師は盲目となる。細密画にはアッラーの見た世界が無から再現され、描き上げられたそれは悠久の、永遠の時を刻む。細密画は一枚の白紙から生まれ、綴じて製本され、やがては一枚の紙に戻る。等々。


ここでいう「闇」とは、無、混沌、無秩序、無限の/悠久の世界、あるいは色彩のない世界、盲目の世界の象徴。つまり細密画とは、闇から生まれ、闇へと回帰するものなのである。


トルコ語önceは時間的には「前/過去」であり、歴史的には「以前」であり、と同時に行為・出来事に「先立つ」ことを、sonraもまた時間的には「後/未来」であり、歴史的には「以降」であり、同時に行為・出来事の「結果として次に来る」ことを指す。このような幅広い概念の言葉を訳す際には、意味を限定しことさらに解説を加えるのではなく、それら概念を包含しつつ一対一対応が可能な語を見つけることに全力を注がなければならない。


トルコ語önce/sonraに相応しいのは、日本語でも「」であるとわたしは考える。概念に対しては概念的な訳語を充てるのがふさわしい。


次に2番目の文では、hatırlamak/görmek/bilmekの関係が定義づけられている。


まずトルコ語の語義としては、それぞれ次のような意味あいがある。
hatırlamak:思い出すこと/覚えていること/記憶していること/記憶にとどめていること
görmek:見ること/注意して見ること/目で見て気づくこと
bilmek:知ること/学んで知ること/理解すること/認識すること


パムックはこの3つの行為を以下のように定義づけた。それぞれ宮下訳を併記してみよう。

Hatırlamak, gördüğünü bilmektir.
追想するという営みは、見たものを知覚するということである」
Bilmek, gördüğünü hatırlamaktır.
(訳抜け)
Görmek, hatırlamadan bilmektir.
見るという営みは、記憶せずにただ知るということである」


Bilmekには「知覚する」「知る」の2種類の訳が、hatırlamakには「追想する」「記憶する」に加え、抜粋した箇所全体では「記憶を呼び起こす」「想起する」を含め4種類もの訳が充てられている。


ある行為/概念の定義づけを行おうという時、行為の名称は固定すべきであると考える。ある文で「知性」とは何かを解き明かそうというとき、「知性」をその時々で「知」と呼んだり「知恵」と呼んだりするようでは、読者は同じ概念を表すものであるかどうか確信できず混乱を来すだけでなく、思索の妨げともなって、そこから先に進めなくなる。
従ってこのような場合には、語彙を豊かに見せようとして何種類もの訳語を用意するのではなく、すっきりと訳語をひとつに統一すべきであると考える。


hatırlamakを「記憶する」に、görmek を「見る」に、bilmekを「識る」にそれぞれ訳語を統一して訳してみた。比較しやすいよう、原文と宮下訳も並べることとする。

細密画の前には闇があり、細密画の後にもまた闇がくる。絵具によって、技と情熱とによって、アッラーが「見よ」と命じられたものをわれわれ絵師は記憶する記憶するとは、見たものを識ることである。識るとは見たものを記憶することである。見るとは記憶せずに識ることである。つまり細密画を描くとは、闇を記憶することなのである。

Nakıştan önce bir karanlık vardı ve nakıştan sonra da bir karanlık olacak. Boyalarımızla, hünerimiz ve aşkımızla Allah’ın bize, görün, dediğini hatırlarız. Hatırlamak gördüğünü bilmektir. [Bilmek, gördüğünü hatırlamaktır.] Görmek, hatırlamadan bilmektir. Demek ki nakşetmek karanlığı hatırlamaktır.

細密画がはじまる前、ただ闇があった。よって細密画が無くなったのちもまた、闇が訪れることだろう。そしてわれわれ絵師は絵具と技、そして情熱をもって神が「見よ」仰ったものの記憶を呼び起こす。この追想するという営みは、見たものを知覚するということである。一方、見るという営みは、記憶せずにただ知るということである。すなわち画芸とは、闇を想起するということに他ならない。