ノーベル賞受賞スピーチ 【父の旅行鞄】−3

 この、書物を自由自在に読みこなし、唯一自身の良心の声に耳を傾けながら他の者たちの言葉と論争し、そして書物と対話を重ねながら自身の思想と世界を形成した、自由で独立した作家の最初の偉大な例は、もちろん近代文学の先駆者モンテーニュであります。 父も何度も読み返し、私に読むよう忠告した作家でした、モンテーニュは。
 

 世界のどこにあろうと、東であろうと西であろうと、集団からかけ離れ自分自身を書物とともに一室に閉じ込める作家たちの伝統の一部と、私は自分自身を見なしたいのです。 私にとって真の文学の始まる場所は、書物とともに自身を部屋に閉じ込める人間にあるのです。

 しかしながら、自分たち自身を閉じ込めた部屋で、私たちは思われているほど孤独ではありません。 私たちに、まずは他の者たちの言葉が、他の者たちの物語が、他の者たちの著作が、つまり伝統と私たちの言うところのものが、私たちの伴奏者を勤めるのです。

 
 文学は、人間存在が自分自身を理解するために創造した最も価値ある蓄積であると私は信じています。 人間社会、種族、国民は、文学を重視し、作家たちの声に耳を傾けたのと同じだけ、賢くなり、豊かになり、そして向上します。そして私たち全員が知っているように、焚書、作家への軽視は、国民にとって暗く愚かな時代の使者なのです。 しかしながら、文学はいつの時代にも、単に国民的テーマではありえません。 


 書物とともに部屋に閉じ籠り、まず最初に自身の内部で“旅立ち”を遂げる作家は、そこで数年の間に、優れた文学の諦めざる法則をも発見することでしょう。 すなわち、私たち自身の物語を他の者たちの物語のように、そして他の者たちの物語を私たち自身の物語であるかのように物語ることのできる技術なのです、文学は。 これを可能にするために私たちは、他の者たちの物語から、著作から出発するのです。


 父には、一作家にはじゅうぶん有り余る1500冊の蔵書を抱える素晴らしいライブラリーがありました。 私が22歳のとき、このライブラリーにある本全部はおそらく読んでいなかったと思いますが、どの本も一冊ごとによく知っていました。 どれが重要で、どれが軽くて読みやすいか、どれが古典で、どれが不朽の世界的名作か、どれがいつか忘れ去られるだろうが面白い地方の歴史の証言か、どれが父がとても大事にしていたフランス人作家の本であるか、私はよく知っていたのです。 ときにはこのライブラリーを遠くから眺めては、自分もいつか別の家に住んだら、このようなライブラリーを、しかももっと良いものを持とうと、蔵書によって自分自身にひとつの世界を構築しようと想像したものでした。

 遠くから眺めたとき、ときどき父のライブラリーは、私には全世界の小さな縮図であるかのように映ったものです。 しかし、これは私たちの角度から、イスタンブールから眺めた世界に過ぎなかったのです。 ライブラリーもこのことを表していました。 父はこのライブラリーを外国旅行の際、特にパリとアメリカで購入した書籍と、青年時代にイスタンブールで、1940年代から50年代にかけて外国語の本を売っていた書店で購入したものと、そしてどれも私がよく知っているイスタンブールの昔ながらの本屋や新しい書店で手に入れたもので作り上げたといいます。

 地方(イスタンブール)的、民族(トルコ)的世界と、西洋世界との混淆でした、私の世界は。 1970年代以降、私も主張を持ったかたちで自分自身のためにライブラリーを築きはじめました。 いまだ作家になる決心は完全にはついてはいませんでした。 『イスタンブール』という名の作品で語ったように、もはや画家にはならないだろうとは感じていましたが、私の人生がどの道に進んでいくのかも完全には分かっていませんでした。
 

 私の中には、一方ではあらゆるものに対するやむにやまれぬ関心と、あまりに楽天的な、読んで何事かを学ぶことへの渇望がありました。 もう一方では、私の人生があるかたちで“不足”した人生になるだろうことを、他の人たちのようには生きられないだろうことを、私は感じとっていました。 この感覚の一部は、ちょうど父のライブラリーを眺める際に感じたように、中心から遠く離れているという考え方や、イスタンブールのその時代に、私たち誰もが感じていたように、辺境で生活しているという感覚にまつわるものでした。

 もうひとつの、不足した人生に対する懸念はもちろん、絵を描こうと、文学をやろうと、芸術家にはあまり関心が示されず、希望も与えられることのない国に私は住んでいるのだということを、十二分に分かっていたことでした。 1970年代、まるで人生におけるこの不足感を取り払いたいかのように、異常なほどの貪欲さで、イスタンブールの古本屋から父のくれた金で、色褪せ、読み古され、埃だらけになった書籍を購入していたとき、これら古書を売る店を、道端や、モスクの中庭や、崩れた壁の口に構えている本屋たちの、貧しく、だらしがなく、そして大抵は人に失望を与えるほど打ちひしがれた状態は、読もうとしている本と同じほどに私に影響を与えたものでした。


 世界の中の自分の位置というテーマにおいて、人生におけるように文学においても、その頃私が身に付けていた基本的感覚は、この“中心に居ない”という感覚でした。 世界の中心には、私たちが暮らしているのよりずっと豊かで魅力的な生活がありました。 そして私は、イスタンブールの人々全部とトルコ全体と一緒に、この外側にいました。 この感覚を、世界の大多数の人々と分かち合っていると、本日、私は考えています。 同様に、世界文学というひとつの世界があり、その中心は私からは非常に遠いところにありました。

 もともと、私の考えたのは西洋文学であり、世界文学ではありませんでした。 そして私たちトルコ人は、そこからも外れたところにいました。 父のライブラリーもこのことを確証するものでした。 一方では、私がディティールの数多くを好む、好まずにはいられない、地方的な私たちの世界である、イスタンブール生まれの作品と文学がありました。 もうひとつはそれにまったく似ても似つかぬ、似つかぬことが私たちに苦悩と同時に希望をも与える、西洋世界の作品です。 


 書くこと、読むことは、あたかもひとつの世界から脱出して向こう側にある別種のもの、奇妙なもの、驚異の力に慰めを見出すことでありました。 父もときおり、まさに私が後にやったように、自分の暮らしている生活から西洋へと逃れるために小説を読んでいたのだと、私は感じたものでした。 あるいは、あの頃書物は、この種の文化的欠乏感を追い払うために頼みとしていたものであるかのように私には思えるのでした。 単に読むことだけではない、書くことも、イスタンブールにおける私たちの生活から西洋へ行って帰るようなものだったのです。