『雪』より―雪をめぐる断章【3】

雪のカルス川






  第3章 アッラーの党に一票を―貧困と歴史 より


  子供の頃、Kaにとって貧困とは、弁護士の父親と主婦の母親、可愛い妹、正直者の家政婦、家具やラジオやカーテンで出来上がった、ニシャンタシュの中流階級の生活と「家」の境界が途切れ、その外側にある向こう側の世界が始まるところだった。 手を伸ばしえない危険な闇の存在ゆえに、この向こう側の国は、Kaの子供っぽい想像の中で、ある種、形而上学的な大きさを占めていた。 その大きさは残された人生でさほど変化するはずもないのに、イスタンブールで急遽決定したカルスへの旅に出発するにあたって、いったいなぜ子供時代に戻ろうとする衝動のままに行動したのか、説明するのは難しい。 Kaはトルコから遠く離れていたにもかかわらず、カルスが近年、国内で最も貧しく、最も見放された地方となっていたことは知っていた。 12年間暮らしたフランクフルトから戻り、子供時代を共に過ごした友人たちと歩いたあのイスタンブールの通りという通りが、商店という商店が、映画館が、頭の先から爪先まで変貌し、消滅し、魂の抜け殻となってしまったのを目にしたことが、Kaの内に子供らしさと純真性を他のどこかに探し求めたいという願いを目覚めさせたと、それがために子供の頃に断念した、境界で仕切られた中流階級的貧困と対峙するつもりでKaはカルスへの旅路へと出発したと言えるだろう。 同様に、子供の頃に履いていた、イスタンブールでは二度とお目にかかれなかったギスラベット・マークのスニーカーや、ヴェスヴィオ・マークのストーブ、カルスについて子供の頃に最初に知ったものになる、六つの三角形からなる丸いカルス・チーズの箱を商店街のウィンドウに見つけた嬉しさのあまりに、Kaは自殺した娘たちのことも忘れて、カルスに自分がいることに安らぎすら感じていたのだった。


 昼にもなろうという頃、Kaは新聞記者のセルダル氏と別れ、人民平等党やアゼリ人のリーダーたちと面会した後、大粒の雪の降りしきる町のなかを一人きりで歩き回った。 アタチュルク大通りを過ぎ、橋を渡って最貧地区へと心を痛めつつ歩きながら、時おり犬が吠えるほかには決して破られることのない静寂のなかで、そこからは遠くて見えない険しい山々や、セルジューク時代に遡る城砦跡と歴史の残骸から離れられそうにないゲジェコンドゥ住宅の上に、あたかも無限の時間へと拡散していくように降る雪を、自分以外の誰ひとり気に留める者がいないかのように感じ、涙がこぼれんばかりになった。 ユスフ・パシャ地区の、ブランコがもげ、滑り台の壊れた公園の脇の空き地で、隣接した石炭倉庫を照らす背の高い街灯の明かりの下でサッカーに興じる高校生くらいの若者たちを眺めた。 雪でかき消されそうな怒鳴り声や罵声を耳にしながら、街灯の褪めた黄色い光と降る雪の下に立ち、この世界の片隅が、何ものよりも遠く、信じがたいほど無人で孤立している様にあまりに激しく感応したために、Kaの内にアッラーへの思いが現れた。

 (p.23-24)

 激しさを増しながら降る雪が、Kaにふたたび孤独感を呼び覚まし、その孤独に、イスタンブールに育ち暮らした環境と、西洋化したトルコの生活に終わりが近付いているのではないかという恐れがぴったり寄り添っていた。 イスタンブール滞在中、子供時代ずっとそこで過ごしていた小路のいくつもが破壊され、友人の幾人かが住んでいた20世紀初頭から続く古く瀟洒な建物がことごとく破壊され、子供の頃にあった樹々が枯れて伐採され、映画館が10年で閉館になって順々に狭く薄暗い洋品店に取って代わられたのも目にした。 それは子供時代が完全に終わりを告げたというだけではなく、いつかもう一度イスタンブールで暮らすという空想の終わりをも意味していた。

(p.31)


子供時代への、トルコの昔ながらの風景への郷愁。 子供の頃、直視するのを恐れた貧困への、一種の「憧憬」。 そこでなら純粋な子供心を取り戻せるかもしれぬという淡い期待。

無邪気な楽観と甘い空想を抱いてカルスに降り立ったKaだが、カルスの町の隅々にまで滲み渡る貧困という冷気に目が覚める。 それは、西欧化の進んだイスタンブールの高級住宅地ニシャンタシュの、ぬくぬくとした中流階級的生活の窓枠を通して見た相対的貧困、Kaの観念のうちにあった「貧困」のはるか彼方に厳として存在する、世界の果ての、当の住民からも見放されたかのような不毛の地の、岩の割れ目の奥に蔓延る地衣類のごとき、あるいは大気中に舞う埃のごとき、あまりにも土着で自然、絶対的で実存的な貧困なのだった。




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この頃、翻訳という作業を通して、「言葉の豊かさ」についてあらためて考えるようになった。


大多数のトルコ人は、「トルコ語は豊かな言語だ」と胸を張って自慢する。 それに対し、「いやいや、日本語の豊かには到底、及ばないさ」と、心のうちで反論してきた。
 
例えば、「hayat」という言葉がある。 日本語にすると、「人生」「生活」「生き方」「生命」「いのち」「運命」・・・と何通りにも訳せる。
あるいは「dünya」。「世界」「地球」「この世」「世の中」・・・文脈によって訳し分けねばならない。
一見すると、語彙の豊富さのゆえに、日本語の方が「豊か」であるように思える。 私自身、長年そう思ってきた。


しかし、トルコ人がひとこと、「hayat」と言うとき、頭の中には、誕生から死まで、人生の光と影、喜怒哀楽に満ちた日々の生活、労働と糧、成功と失敗、嘆き、涙・・・そうした諸々の情景がふわっと一時に浮かんでくるはずである。 それは、日本語の「人生」がイメージするものより、ずっと広範で色彩と陰影に富んでいるように思う。
「dünya」しかり。 ひとこと「dünya」と言うとき、自身を取り巻く比較的狭い社会環境から、より広い社会へ、世界へ、そして地球というひとつの共同体にまで意味は拡大していく。

 
言語学の素養がない私の単なる印象に過ぎないのかもしれないが、トルコ語の上記のような単語に比べると、日本語は語彙が発達している分、各語の意味する範囲はずっと限定的であるように思う。 それがために、トルコ語のたった一語のイメージする世界を訳出するのに、七転八倒することになる。


例えば、本章から抜粋した上記の訳文中、最も迷ったのが「ıssız」の訳語であった。 これには、「人里離れ」「周囲に何もなく」「孤立し」「人っ子一人いない」「死んだようにひっそりした」「不毛の(地)」というような意味があるが、それらのうちどれかひとつに置き換えれば済むというわけにいかない、むしろそれらの意味をすべて呑み込んだ言葉なのである。 ここでは便宜上、「無人で孤立している」と訳出したが、いまだ訳しきれていないという不満が残っている。



かくして、一つ一つの言葉に備わる意味の包含性という点では、トルコ語の方が、もしやずっと豊かなのではないかとつらつらと考えているところである。