新訳『わたしの名は赤』より(1)


§ふたたび「頭から順に」のススメ


2年前の最後のブログでも全く同じ指摘を行ったが、今ふたたびこの主張を繰り返したい。日本語とほぼ同じ語順・構造をもつトルコ語を訳すにあたっては、英文和訳のように「後ろから前に」ではなく「頭から順に」訳すのが最も自然である、と。作者の思考の流れや語り口を忠実に伝えるのは「直読直訳」であり、文の前後を巧妙に入れ替えて文脈に手を加えることなどもってのほか、だと訴えたい。


『白い城』においてすでに発揮されている宮下氏の翻訳の好ましくない特徴として、「後ろから前に」訳すために節の順番を自由に入れ替えていること、さらには節を途中で切り離したり節同士を結合させたりしていることが挙げられる。このせいで本来の修飾関係が崩れ、意味が通じなくなっていたり、矛盾を起こしたりしている箇所が散見される。今年刊行されたばかりの新訳版『わたしの名は赤』では、小説の主題にまで抵触している箇所があるのが残念である。


なぜ頑なに節の順番を入れ替え、文の構造を組み替えようとするのか。頭から順に直訳するのは素人や学生のやることとでも考えてらっしゃるのか、私には一向に理解できない。もしかしたら、一つの言語からもう一つの言語へと言葉をひとつひとつ置き換える愉しみにも増して、文の構造を弄りながら長文を攻略することに大きな愉しみを覚えてらっしゃるのかもしれない。


§ダッシュの多用は煩いだけ


新訳版『赤』でまず気付いたのは、ダッシュが至る所で使われている点である。特に長い修飾詞・修飾節をダッシュで囲み、被修飾語や被修飾語を含む節の後ろや前に置く。それだけに留まらず、さして必要もないと思われる箇所で、単に強調する意味でも頻繁にダッシュが用いられている。


パムックの文体の大きな特徴である、長い修飾詞がいくつも連なる翻訳者泣かせの文章が、ダッシュを使用することで俄かに訳し易くなっただろうことは理解できる。が、ダッシュの挟み込まれた箇所で文の流れが途切れ、読書の妨げとなっていることも事実である。しかし弊害はそれだけに留まらない。ダッシュで囲むために、しばしば修飾節の位置を動かさざるをえなくなり、それによって修飾関係が曖昧になったり、間違った修飾関係が生まれてさえいるのだ。


例えば次の例を見てみよう。

様式と署名についてのわたしの―そしてベフザードの―考えに、神が同意してくれたのだろう。たとえ無自覚であったにしても、例の書物に挿絵を入れるのが許されざる罪であったのなら―あの愚か者はそう言って譲らなかった―四日前のあの晩、神はわれら絵師にかような宥恕はお見せにならなかったはずだ。(宮下遼訳『わたしの名は赤』p.50)

原文は以下の通りである。

Bu, Allah’ın da üslup ve imza konusunda benimle ve Behzat’la aynı fikirde olduğunu kanıtlıyor. Dört gece önce, o akılsızın ileri sürdüğü gibi bağışlanmaz bir günahı, farkında olmadan bile olsa, kitabı nakşederken işlemiş olsaydık, Allah biz nakkaşlara bu sevgiyi göstermezdi. ([Benim Adım Kırmızı] p.27)

作品全体を通して見ても、原文ではダッシュはほとんど用いられていない。実際この文も、修飾節をわざわざダッシュで囲む必要のまったくなさそうな一文である。翻訳者には、ダッシュで挟んだ箇所を強調する目的があるのかどうかは分からないが、1行目のダッシュが不要なだけであるのは確かだろう。


原文の語順を尊重しながら、ダッシュを用いずに訳してみるとこうなる。

これは、アッラーもまた様式と署名については、わたしともベフザードとも考えを等しくされているということの証である。四日前の晩、あの愚か者が頑なに訴えたように許されざる罪を、たとえ自覚していなかったにせよ、例の書物に挿絵を入れる際にわれわれが犯していたのだとすればアッラーはわれわれ絵師にこのような愛情はお示しにならなかったはずだ。


これら3つの文を比較してみた時、修飾関係上の問題点が浮かび上がる。


1)「許されざる罪」とは何なのか。

宮下訳では「例の書物に挿絵を入れるのが許されざる罪であったのなら」という表現がある。つまり「許されざる罪」は「例の書物に挿絵を入れること」それ自体であるということになる。が、これはこの小説のプロットから考えて絶対にありえない。

原文を素直に頭から読めば、「許されざる罪」は「例の書物に挿絵を入れる際にわれわれが犯していたかもしれないもの」であり、挿絵を入れる際に行われうる何らかの行為であると想像がつく。
節の順序を前後入れ替え、節同士を結び付けたせいで、小説の主題と矛盾する一文となってしまっている。


2) 愚か者が「そう言って譲らなかった」内容

宮下訳によれば、愚か者がそう言って譲らなかったのは「例の書物に挿絵を入れるのは許されざる罪であること」という意味になる。が、第1項で見たように、原文を素直に読みさえすれば、愚か者が頑なに主張したのは、「例の書物に挿絵を入れる際にわれわれが許されざる罪を犯していること」だということが分かる。


3)「四日前のあの晩」にあったこと

宮下訳では、「四日前のあの晩」に起こったのは、「神がわれら絵師にかような宥恕をお見せになったこと」になる。四日前の晩に起こった殺人事件と、その際に神が絵師たちに見せた寛容とはどう考えても結びつきにくい。これも原文を頭から素直に読みさえすれば、四日前の晩に起こったのは、「例の書物に挿絵を入れる際にわれわれが許されざる罪を犯している」と「愚か者が頑なに訴えたこと」であることが分かるはずだ。


4) 「かような神の寛恕」とは何か

宮下訳では「四日前の晩にわれら絵師にお見せになったこと」であるが、その内容までははっきりしない。四日前の晩であれば、殺人を犯すことをお許しくださった、という意味にとれるかもしれない。
「この愛情」は、原文を文脈に沿って解釈する限り、そのひとつ前の文「雪が(殺人現場に残された)わたしのあらゆる痕跡を覆い隠してくれたこと」を表していると考えられるがどうだろうか。



以上のように、原文でわずか5行弱のパムックにしては短めの文章であるが、一修飾節をダッシュで囲み、残りの節の順序を組み替えてひとつに繋げたことで、作品の主題にまで抵触するような誤った修飾関係が生まれている。あたかもダッシュを用いることを優先したために、文意を確認するのがおろそかになったかのような印象である。

宮下氏には、修飾節を手当たり次第にダッシュで囲むのではなく、トルコ語の語順に従って一度は頭から順に訳し下ろしてみることをお願いしたい。その上でどうしても訳せないという場合に限って、ダッシュを用いるなり節の順を入れ替えるなり、文意に背かない範囲内で自分なりの工夫をされることを心掛けて欲しいと思う。



最後に・・・
ダッシュは、一般にはダッシュの前に来る文、語を説明・解説・注釈する目的のために、括弧の代わりとして用いられるものではないだろうか。宮下訳では、特にこのような目的を持たず装飾的に挟み込まれたダッシュがあまりに多い。前に来る語の注釈だろうという考えで読み進むと、場合によっては誤読さえも引き起こしかねないので要注意だ。


以下の箇所は、ダッシュで囲む必要のない文のうちのごく数例である。

「お父様―のちには軍人の夫―がそれを見つけて」(p.97)
「鉄床めがけて―しかし男には当らぬように―鉄槌を」(p.130)
「綱の上を―まるで広々とした大理石の上を行くように堂々と―渡りきれば」(p.130)
「絵のどこかしらに―西欧の名人よろしく―署名を」(p.136)
「金と名声は―まさにわたしがそうであるように―優れた技量」(p.140)
「絵師である息子が―あの絵にあったそのままに―窓から室内へ」(p.144)
「他のみなと同じように―そして、昔の名人たちと同じように―描きました」(p.159)