新着本[Masumiyet Müzesi]

Masumiyet Müzesi




 7年がかりで書き上げたというオルハン・パムックの新作、“恋愛小説”[Masumiyet Müzesi]がとうとう発売された。発売日の前日にあたる8月28日にはすでに店頭に陳列されていたので、早速購入。
 実務翻訳の方は、ようやく夏の繁忙期も一段落したが、個人的な要件が続き、なかなか読書に本腰を入れられない。本日は、とりあえず紹介だけしておこう。
 


〔書 名〕MASUMİYET MÜZESİ
〔著 者〕ORHAN PAMUK
〔出版社〕İletişim Yayınları
〔出版年〕2008年9月(初版第1刷)
〔頁 数〕586ページ

 「それが自分の人生でもっとも幸福な瞬間だったとは、気づいていなかった」


 1975年の春のある日に始まり現在にまで至る、イスタンブールの裕福な青年ケマルと、遠縁の親戚にあたる貧しい娘フュスンの物語。スピードある展開、次々と起こる事件、登場人物の多さ、エスプリ感、そして人間精神の深奥で嵐が吹き荒れる感覚を引き起こす力によって、一度手に取れば二度と手放せない、読んだ後でもう一度読みたくなる一冊になることであろう。
 (裏表紙の紹介文より)

京都精華大学オルハン・パムック講演会より(3)

Bu da, her gün almam gereken ilacın nitelikleri konusunda biraz daha bilgi veriyor. İlacın kuvvetinden, hem hayattan hem de hayal gücünden çok beslenmiş olması gerektiğini anlıyoruz.

このことから、毎日飲む必要がある薬の性質について、さらに分かることがあります。薬は、うんざりしていること、さらに人生と想像力からしっかりと養分を与えられていることが必要なのだ、ということが理解できます。


[kuvvet]とは、「力/威力/強力さ」ということである。したがって[İlacın kuvvetinden...i anlıyoruz]で、「薬は、その威力/強さから・・・だということを、わたしたちは理解する」となる。「うんざりしていること」という言葉は、原文のどこにも見出せない。見間違えたか、単純に書き間違え/言い間違えたのだろうか?


このことがまた、わたしが毎日「服用」しなければならない薬の性質について、もう少し情報を与えてくれます。つまり薬は、その強さから、人生からも想像力からも十分に栄養を与えられたものでなければならないということが理解できるのです。


Bir itirafta bulunmanın zevki ve kendim hakkında doğruyu söylemenin korkusuyla yürüttüğüm bu mantığın önemli ve ciddi bir sonucu var, ona hemen gireyim. Yazmanın bir ilaç ve teselli olarak irdelendiği kısa bir roman kuram: Benim gibi bazı romancılar, romanlarının konularını, biçimlerini bu günlük hayal ihtiyacına göre seçerler.

告白する悦びと、自分について本当のことを言う怖れを感じつつ、ここまで展開してきた論理の重大な結論があります。それについて述べましょう。“書くこと、薬、そして慰め”として吟味した短い小説理論です。このような小説家たちのなかには、小説のテーマや形態を、この日々感じる、空想することの必要性に応じて選ぶ人たちがいます。


「書くこと、薬、そして慰め」と箇条書きのタイトル風に語られているのが奇妙である。ここは「書くことが、薬として、そして慰めとして吟味される」言い換えて、「書くことを薬として、そして慰めとして吟味した」となるべきであろう。


何かを告白することの快楽と、自分自身について真実を語ることの怖れとともに進めてきたこの論理には、重大なひとつの結論があります。今それについて説明します。書くことを、ひとつの薬であり慰めとして分析する短い小説理論です。つまり、わたしのような一部の小説家は、小説のテーマや形態を、この、日々空想する必要性に応じて選んでいるのだということです。


Sanki her şey basitleşmiş, bu basitliği içinde, camdan yapıldığı için içlerini gösteren evler, arabalar, gemiler, binalar gibi sırlarını bana vermeye başlamıştır.

まるで何もかもが単純明快になったようで、この単純さの中では、ガラスでできていて中が見える家や車や船やビルなどが、それぞれの秘密をわたしに語り始めるのです。


[gibi]=「〜のように」を見逃したか、無視してしまったために、主語がずれてしまったようだ。ここでの主語は、あくまで[her şey]であろう。「何もかも・・・のように、秘密を私に語り始めるのです」であり、家や車や船やビルが秘密を語るわけではないだろう。


まるであらゆるものが単純化してしまい、その単純さの中にあって、まるでガラスでできているために中が見えてしまう家、車、船、建物のように、その秘密をわたしに打ち明けはじめたかのようなのです。


Yazarlığın en güzel yanı, eğer yaratıcı yazarsanız bir çocuk gibi dünyayı unutabilmek, gönlünüzce oynayıp eğlenirken kendinizi sorumsuz hissedebilmek, bildik dünyanın kurallarıyla oyuncaklarla oynar gibi oynayabilmek ve bütün bunları yaparken de aklınızın bir köşesiyle bu çocuksu ve özgür şenliğin arkasında daha sonra okuyanları bütünüyle bağlayacak derin bir sorumluluğun varlığını hissetmektir. Bütün gün oyun oynarsınız, ama derinden derine herkesten daha ciddi olduğunuzu da hissedersiniz. Hayatın özünü, onunla doğrudan karşılaşmanın gücünü, yalnızca çocukların yapabileceği bir içtenlikle ciddiye almışsınızdır. Özgürce kurup oynadığınız oyunun kurallarını kendiniz cesaretle koydukça, okurların da bu kuralların, dilin, cümlelerinizin, hikayenin çekimine kapılıp sizi takip edeceklerini hissedersiniz.

作家であることの最も素晴らしい面は、クリエイティヴな作家であるなら、子供のように世界を忘れられ、心の赴くままに遊び楽しむ際に、自分に責任を感じずにいられ、おもちゃで遊ぶかのように既存の世界の法則と戯れられ、そしてこれらすべてをやっている最中にも、頭のどこかでは、この子供らしい自由な楽しみの影には、後に読者たちを完全に結びつける重い責任があるということを感じ取ることなのです。一日中遊んでいても、奥深いところでは誰よりも真面目であることを感じるでしょう。人生の本質を、誠実さを、子供たちだけにできる心からの真剣さで受け止めてしまっているのです。好きなように設定して遊んだ遊びのルールを、自分の手で勇気を持って確定すればするほど、読者たちもこのルールも、言葉も、文章も、物語の魅力に捕われ、自分の後をついてくるはずだという風に感じるのです


原文は、オクラホマ大学で行われた講演から採録したものであり、聴衆は学生(おそらく文学専攻)や作家志望者を想定していると思われる。が、聴衆に対して熱心に語りかけるパムックのメッセージは、実は、訳文全体を通じ、まるで単なる空想癖のある人間の一人語り・うわ言のように宙に浮いてしまっている。この箇所はその典型的な例といえるだろう。
原因は、主語・人称が徹底的に省略され、訳文に反映されていないことにある。そのため、パムックが誰について語り、誰に対し語りかけているのかが不明瞭で、メッセージがストレートに伝わってこないのだ。日本語がいくら主語を省略する言語だ、としても、省略しすぎもまた困ることがよく分かる。
なお、[onunla doğrudan karşılaşmanın gücü]は、「それ(人生の本質/真髄)と真正面に向き合う力」という意味である。「誠実さ」は、いったいどこから引き出されてきたのだろうか?


作家であることの最も素晴らしい面は―もしあなたがたがクリエイティヴな作家であるなら―子供のように世界を忘れてしまえること、心ゆくまで遊び楽しみながら、自分自身が何の責任もないものに感じられること、既知の世界のルールとも、まるでオモチャで遊ぶかのように遊べること、そしてこれら全てを行いながらも、頭の片隅で、このような子供らしい自由気ままなお祭り騒ぎの裏側に、後々、読者を完璧に繋ぎとめなければならないという奥深い責任が横たわっているのを感じることなのです。一日中、遊んでもかまいません。ですが、奥底のほうでは、自分が誰よりもはるかに真剣であるということも感じられることでしょう。人生の真髄を、人生の真髄に真正面から立ち向かう力を、子供だけが持つことのできる生真面目さで信じられたことと思いますあなたがたが自由な思いつきで遊んだゲームのルールを、あなたがた自身が勇気を奮って定めていくたび、読者も、このルール、言語、文章、物語の引力に引き寄せられて、あなたがたの後ろから着いてきてくれるに違いないと感じられることでしょう



(4)につづく

京都精華大学オルハン・パムック講演会より(2)

Önce ilaç iyi olmalı. İyilikten hakikiliği ve kuvveti anlıyorum. İnanabildiğim sıkı, yoğun, derin bir roman parçası beni her şeyden daha çok mutlu eder ve hayata bağlar.

まず、薬は良いものでなければなりません。「良い」というのは真正で力強いことだと思っています。わたしが信じられる、かっちりとした、密度の高い濃厚な小説作品は、何よりもわたしを幸せにし、人生に繋ぎとめるのです。


薬が[iyi]とは、なによりも「効く」ということであろう。「良い」と訳した都合上だろうか、次の文では構文解釈がおかしくなっている。
[İyilikten hakikiliği ve kuvveti anlıyorum.] とは、「iyilikからhakikilik 、そしてkuvvetを理解するのです」ということで、文法的には至極単純なものである。もしや、「“良い”ということから“真正さ“と“力強さ”を理解する」では意味がとれなかったために、勝手に頭の中で構文を変えてしまったのであろうか。ここは、薬を「効く」と訳すと上手く収まってくれるように思う。


まず、薬は効くものでなければなりません。その効果(ききめ)から、本物であるかどうか、強力であるかどうかが分かるのです。わたしが信頼できるような、中身の詰まった、濃密で、深みある小説の一編は、わたしを何にも増して幸福にし、人生に繋ぎとめるのです。


Ölmemişlerse de bu harika yazarların aramızdaki varlıkları hayaletlere benzer.......Bazen bir süre sonra o yazarın da öleceğini ve böylelikle kitaplarının gönlümüzde daha da yüksek bir yere oturacağını düşünürüm. Ama tabii her zaman böyle olmaz.

まだ死んでいない場合、この素晴らしい作家たちの存在は、わたしにとって幽霊にも似たものです。(中略)時々わたしは、しばらく後にはその作家も死ぬだろうし、そうすればその人の本が心の中でさらに高い位置に昇るだろうと思うことがあります。ですが、もちろんいつもそうだというわけではありません


細かいニュアンスの違いが気にかかる。パムックは、作家とパムック自身の一対一の関係を語っているわけではなく、「私たち」という言葉を用いているのだが・・・。
また、「もちろんいつもそうだというわけではありません」の「そう」の指すところが曖昧である。「時々・・・思うことがあります」が、「いつもそうだ(=思う)というわけではありません」とも受け取れるからだ。
[böyle olmaz]は「そのようなことはあり得ない/そのようにはいかない」という、きっぱりとした否定になる。否定される対象は、「しばらく後にはその作家も死」んで、「その人の本が心の中でさらに高い位置に昇る」こと、である。


死んでいなかったとしても、この素晴らしい作家たちの、私たちの間での存在は、亡霊のようなものです。(中略)時には、しばらくすればその作家も亡くなり、それによって、その作家の作品は私たちの心の内でさらに高い場所を占めることになるだろうと考えることがあります。ですが、もちろん、いつもそのようなわけには行きません


Her gün almam gereken “edebiyat”ın “dozu”, eğer ben yazıyorsam, bambaşkadır. Çünkü benim gibilerinin durumunda, en iyi tedavi, en büyük mutluluk kaynağı, her gün iyi bir yarım sayfa yazmaktır. Otuz yıldır aşağı yukarı her gün on saatten az olmamak üzere bir odada, masamda yazıyorum.

毎日わたしが摂取する必要がある「文学」の「一服」は、自分がものを書いている場合には、まったく違うものになります。というのも、わたしのような人間にとって、一番いい治療、幸福の最大の源は、毎日半ページ、上質のものを書くことだからです。三十年間、ほぼ毎日十時間、机に向かって書いています。


[doz]は服用量、つまり一回分ないし一日分の薬の「量」を意味する。「一服」とはその「一回分の薬を飲む/服用すること」なので、この場合、正確ではない。
また[durum]=状態/病状/症状、 [on saatten az olmamak üzere]=10時間を下回らないように/最低10時間/10時間以上という意味であり、多分に病気や薬の処方に掛けた言葉遣いが用いているのにもかかわらず、これらが訳文には反映されていない。


毎日、わたしが摂取しなければならない「文学」の「服用量」は、もし自分が書いているとすれば、まったく異なったものになります。なぜなら、わたしと同じような人々の症状において、最もよい治療、幸福の最大の源とは、良いものを毎日半ページ書くことだからです。三十年間、ほぼ毎日、最低十時間、部屋の中で、自分の机に向かって書いています。


O gün iyi yazamamışsam ve teselli olacak iyi bir kitabın içinde kendimi kaybedememişsem neler hissettiğimi anlatayım. Kısa bir sürede dünya, gözümde çekilmez, berbat bir yer olur;

その日上手く書けなければ、そして慰めとなる良い本に没頭できなければ、わたしがどう感じるのか、お話しましょう。あっというまに世界は魅力のない、酷い場所になります。


[çekilmez]は、「我慢できない/耐え難い」という意味である。[göz çekici]が「魅力的」という意味になるため、そこから類推して[gözümde çekilmez]で「魅力のない」という成句だと誤解してしまったのだろう。[gözümde...olmak]は、「私の目に・・・のようになる/映る」という意味になる。


その日、上手く書けなかったとしたら、そして慰めとなる良い本に我を忘れることができなかったとしたら、わたしがどう感じるのかをお話しましょう。瞬く間に世界は、わたしの目には、耐え難く忌まわしい場所に映ってしまうのです。


(3)につづく

京都精華大学オルハン・パムック講演会より(1)

すでに1ヶ月が経ってしまったが、先月19日に京都精華大学内で開催されたオルハン・パムック講演会*1のテープを聴く機会があった。


内容は、『父のトランク』に収録された、『内包された作者*2』と題する、2006年にオクラホマ大学で行われた講演を採録した文章のトルコ語および日本語訳の朗読を中心に、パムック氏による英語の説明と質疑応答で構成されている。
なお、英語に関しては逐次通訳者がついているため、氏は自由に自分の言葉で語り得ていたようだが、トルコ語の通訳者は簡単に見つからないからであろう、朗読でお茶を濁さざるをえなかった、という印象である。

読み上げられた日本語訳には、翻訳者の著作者人格権の関係だろうか、和久井女史の訳書ではなく、日本トルコ文化協会側の用意したと思われる訳*3が使われた。とはいっても、訳文の随所に見られる特徴から、和久井女史の訳文が多かれ少なかれ手本となっていることが推測できる。既訳を下敷きとした、いわば協会による「改訳」ということもできるかもしれない。

いくら朗読されたものとはいえ、おそらく訳文の掲載には著作権が絡んでくるであろうから、全文掲載というわけにはいかないだろう。原文と比較検証した結果、幸いにも大きな誤訳は認められなかったが、特に解釈や表現上の工夫という点で訳に疑問を感じた箇所を以下に紹介してみることにする。
それぞれ原文、日本トルコ文化協会訳、試訳の順に掲載する。


Otuz yıldır yazıyorum. Uzun zamandır da bu sözü tekrarlıyorum. Tekrarlana tekrarlana bu söz de doğru olmaktan çıktı, çünkü otuzbirinci yıla geldik.

わたくしは30年間ものを書いています、と長いあいだ繰り返しています。繰り返し言っているうちに嘘になってしまいました。というのも、35年経ったからです


1) [doğru olmaktan çıktı]は、直訳すれば「真実/事実であることから離れた/抜け出た/外れた」ということである。言い換えれば、確かに「嘘になってしまった」という意味にはなろうが、パムックは「嘘になった/嘘になってしまった」=[yalan oldu/yalan olmuş oldu]というような直截な表現をしているわけではないので、なるべくパムックの言葉通りに訳した方がよいのではないだろうか。(しかも、耳から入ってくる言葉として、「嘘」はトーンが強すぎる。実際、私はこの「嘘」の一語に一瞬ギョッとしてしまった)
2) [otuzbirinci yıla geldik]は、文字通り訳せば「(私たちは)31年目にやってきた/着いた/到達した」ということになる。2006年の講演で「31年目」と語っているので、年数の辻褄を合わせるためなら、「33年目」と言い換えてもいいはずだ。朗読者の方がここで「35年」と、おそらくその場になってから変えたのは、この朗読に先立つパムック自身による英語の説明のなかで登場した「35年の経験」という言葉に影響を受けたものと思われる。しかしパムックは、トルコ語で朗読する際、「31年」と読み上げているのである。勝手に数字を変えるのはいかがなものであろうか。


 わたしは30年間ものを書いています。そう、長い間この言葉を繰り返しています。繰り返しているうちに、この言葉も事実から離れてしまいました。というのも、31年目に入ったからです


Benden çok daha üzün bir süredir, yarım yüzyıldır yazan ve buna da dikkat çekmeyen çok parlak yazarlar var. Benim çok sevdiğim, hâlâ dönüp dönüp hayranlıkla okuduğum Tolstoy, Dostoyevski, Thomas Mann gibi yazarların da faal yazı hayatı otuz değil, elli yıldan fazla sürmüş. Otuz yıldan niye söz ediyorum o zaman? Yazarlıktan, romancılıktan, bir alışkanlıktan söz eder gibi söz etmek istediğim için.

わたしよりももっと長い間、半世紀以上もの間ものを書き、そのことあまり言い立てない輝かしい作家たちもいます。わたしが非常に愛している、今でも感嘆しながら何度も読み返すトルストイドストエフスキートーマス・マンのような作家たちの作家生活は三十年どころか五十年以上続いたそうです。では、なぜわたしは三十年という数字を言い立てるのでしょうか?それは、作家であること、小説家であることについて、習慣のように述べてみたいと思っているからなのです。


1) [...e/a dikkat çekmek]は、「・・・に注意を惹きつける」という意味である。故人であれば、本人が直に行える動作ではないので、「・・・に注意を払われない」と受身に訳すことも可能であろう。
一方、「言い立てる」という表現は、「言い張る/強く主張する/喧伝する」というような意味合いに近いだろうか。いずれにしても自らが「ことさらに言い募る」という印象を与え、原文のニュアンスより意味合いははるかに強く(なによりも、意味合いが全く異なる)、主観的かつ感情的な動機があるようにとられる可能性がある。
2) さらに、この同じ「言い立てる」という訳語は、[...dan/den söz etmek]にも用いられている。が、これは単に「・・・について話す/言及する」という意味であり、[...e/a dikkat çekmek]同様、「言い立てる」よりはずっと客観的でフラットな表現である。
なぜ、まったく意味合いの異なる[...e/a dikkat çekmek] と[...dan/den söz etmek]に対し、同じ訳語が当てられているのか理解に苦しむが、両方とも原文の意味からずれてしまっているのが残念である。
3) 「習慣のように述べてみたい」という言い方は妙に曖昧で、読み手によってふたとおりに解釈されてしまう可能性がある。「作家であること、小説家であること」を述べることがいわば「習慣のよう」になっているので、「いつものように」述べてみたいという意味か、あるいは、「作家であること、小説家であること」が「あたかも習慣であるかのように」述べてみたいという意味か、のどちらかである。
しかしこれは、原文を見れば後者以外にありえないことが分かる。[bir alışkanlıktan söz eder gibi]とは「ひとつの習慣について語るかのように」という意味で、訳文ではこの明確な比喩表現が「習慣のように」と端折られてしまったがために、意味がとりにくくなってしまっているのである。


わたしよりもずっと長い期間、半世紀もの間ものを書きながら、そのことには注意を払われない輝かしい作家たちがいます。(中略)それでは、わたしはなぜ30年間について語るのでしょうか?それは、作家であるということ、小説家であるということについて、ひとつの習慣について語るがごとく語りたいと思ったからなのです。


Kaşıkla ya da iğneyle alınan bir ilaç gibi her gün almam gereken edebiyatın, esrarkeşlerde olduğu gibi bazı nitelikleri ve anlamlı bir kıvamı var.

スプーンで、あるいは注射でもって毎日摂取する必要がある文学には、麻薬中毒者が麻薬にこだわるように、いくつかの特徴と意味深い濃度とがあるのです。


[esrarkeşlerde olduğu gibi]とは、「麻薬常習者/中毒者におけるように」という意味である。ここには、原文にはない「麻薬にこだわる」という意味が補足されているが、そもそも「麻薬にこだわる」という表現自体が少々奇妙である。いったい、どのような意味で使っているのであろうか。麻薬常習者/中毒者は、その日、その時をやりすごすために麻薬に頼り、「麻薬なしにはいられない」のであり、パムックは、自分にとっての文学とは麻薬常習者にとっての麻薬と同義だと説明しようとしているに過ぎないのだが・・・。


スプーンで、あるいは注射によって摂取される薬と同じように、わたしが毎日「服用」しなければならない文学には、麻薬常習者における麻薬のように、何らかの性質と意味深い一定の濃度とがあるのです。


(2)につづく

*1:前日18日に京都国際マンガミュージアムにて開催予定だった特別公開講座は、氏の体調不良のため中止となった。翌19日の講演会は精華大生対象のもの。

*2:英文学者であり、受容理論で有名なウォルフガング・イーザーの唱えた“内包された読者”という概念を借用したものである。日本では主に“内包された”と訳されているが、トルコでは一般的に[imalı]=“暗黙の/暗示的な”と訳されており、さらにパムックはこの概念を[ima edilen]=“暗示された”と表現している。

*3:おそらく朗読をされた協会の田村女史本人の手になるものであろう

赤と黒―楽観主義と悲観主義

(今回の投稿は、いつも以上に歯に衣着せぬ辛辣なものになっています。ご気分を害されたくなければ今のうちにご遠慮ください)


ここ一、二日の『赤と黒』新訳をめぐる白熱した誤訳論争も、ようやく沈静化したようだ。いつか文芸翻訳者の末席に着けることを願い、今は人垣の隙間から翻訳出版の世界を遠巻きに眺めている立場に過ぎないというのに、今回の論争は自分にとってあまりに身近に感じられるものだった。
 ―あまりにも似ている―
フランス語とトルコ語というソース言語の違いはあれ、また古典と現代文学、作家と翻訳者自身の知名度の違いはあれ、これほどの誤訳をしでかしてしまう翻訳者はどこにでもいるということなのだろう。
他でもない、オルハン・パムック*1作品の翻訳のことである。


下川教授が、時に辛辣な言葉を織り混ぜながら指摘した誤訳の数々は、私には至極もっともで当然の指摘であるように思われた。氏の気持ちはよーく分かる。長年、スタンダールに関わり、スタンダール研究がライフワーク―もはや人生の一部となっている研究者であれば、作品を汚され、作家を冒瀆されたかのような印象を受けたとしても不思議ではない。「駄本」であり「回収」「絶版」にすべき、とまでは言い過ぎと思えなくはないが、それほどの強い義憤、無念な気持ちが筆を滑らせたに違いない。

一方、私自身はというと、オルハン・パムックに対する強い思い入れはもともと持ち合わせてはいなかったが、何冊かを読み、試訳を行ったのをきっかけとして、一種の愛着を抱くようになったことは確かだ。万が一、私がオルハン・パムックの研究者であったり、彼の熱狂的な信奉者であったならば、下川氏同様、黙ってはいられないだろう。誤訳と問題表現の膨大なリストを用意し、藤原書店に送りつけていたかもしれない。

赤と黒』新訳が「大小の誤訳の総計は数百箇所に上る」「まるで誤訳博覧会」であれば、オルハン・パムックは一体どういうことになるだろう?訳書を手に入れ、頭から比較してみるのが手っ取り早い方法だが、トルコ語版を持っているので、悪訳書を正値でまで購入する気にはなれないし、誤訳箇所の抽出とリスト化に精力を傾けられるほどの熱意も時間も持てない。従っていまだに訳書は一冊も購入していないし、中古品の値段がじゅうぶんに下がるまで今後も購入予定はない。しかし、ウェブ上で見ることのできる様々な形の抜粋から伺い知ることのできる限り、たかが数行〜半頁ほどの訳文中に散見される誤訳および不適切な表現の数から類推して、問題箇所は少なく見積もっても一頁あたり平均1〜2箇所。もし全600頁にもなる作品であれば、数え方次第では千箇所にも上るだろう。さしずめ「誤訳の博物館」というところだろうか。


また、下川氏の書評にある以下の表現にも、パムック作品の既訳を思い浮かべては、いちいち膝を打った。

訳し忘れ、改行の無視、原文にない改行、簡単な名詞の誤りといった、不注意による単純ミスから、単語・成句の意味の誤解、時制の理解不足によるものまで誤訳の種類も多種多様であり

パムックでいえば、いわゆる「訳抜け」あるいは意図的な削除・簡略化、ごく単純な見間違い、構文の理解不足、成句の理解不足あるいは勝手な意味の転換

訳文の日本語も、漢字の間違い、成句的表現の誤り、慣用から外れた不自然な語法等様々な誤りが無数にある。

パムックでいえば、日本語としての構文の破綻、主従の不明・不一致、会話表現・語尾等の不統一、同じく慣用から外れた不自然な表現、語彙不足に派生すると思われる表現の単一化・画一化*2

・・・欠落が奇妙な誤訳を生んでいる。・・・訳し落としたことに気づかないだけでなく、原文を歪めて辻褄を合わせている。なぜそんなことをするのか全く理解不能で、訳の欠落は不注意によるものではなく、故意かもしれない。

パムックの場合もまったく同じことがいえる。見間違い、あるいは訳抜け、あるいは勝手な構文解体と再構築により生まれた齟齬を埋めるための辻褄合わせ(私はこれを「こじつけ訳」と呼んだ)。


「原文を改竄」「原文を添削」という表現が適切かどうかは分からぬが、パムックの場合も「原文軽視」が甚だしいのである。例えば、あまりに冗長な部分を無視・割愛することで、訳が「読みやすく瑞々し」くなるならまだよい。読みにくく古臭く、居心地の悪さだけが残るパムックの訳文のケースは、あえて率直に言うならば、「原文を貶めている」ともいえる。それだけ「手前勝手」の加減は甚だしく、出来上がった日本語は原文からも自然な日本語からもしばしばかけ離れたものになっている。さしずめ「不実な醜女」というところであろうか。


私たち実務翻訳者は通常、「原文に忠実」であることをまず第一義に考える。「忠実」であるとは、原文に誠実に向き合い、そこに何が書かれてあろうと、それを100%表現することに全精力を傾けることである。よく言われることだが、基本は「何も足さず、何も引かず」である。なによりもまず「原文ありき」であり、出過ぎた真似はご法度である。

実務であれば、意味的にぴったり一対一対応する訳語が見つかるまで、場合によっては一つの単語、一つの用語に30分もかけて調べることがある。分からない表現があれば、分かるまで調べ尽くす。分からないからと端折ったり、まったく意味の異なる言葉に置きかえてしまったりするのは、問題外だ。
しかし、これはなにも実務翻訳だけのことではなく、文芸翻訳にも言えることなのではなかろうか?一作家が10年を費やして書き上げた大作を翻訳するのである。どれだけ真摯に、誠実に、それこそ「針で井戸を掘る」ように原文と向き合い、一語一語、一文一文を訳し続け、それに10年を費やしたとしても、完璧な翻訳というものはありえない、それが翻訳という仕事なのだ。やっつけ仕事など、作家の労苦に対しても作品の価値に対しても非礼このうえない。

不注意による誤訳、訳抜けがあったとしても(下訳の段階では多少なりともあるのが普通であるが)校閲を重ねることでひとつずつ正していくことができる。成句の解釈間違いや構文解読の間違いも、校閲するうちに自ら間違いに気づくことがある。日本語表現を磨き上げるのも同様である。見直せば見直すほど、磨けば磨くほど訳の質は向上し輝きを増していく。
このような誤訳の大安売りをしてしまう『赤と黒』の新訳者やパムックの翻訳者は、その校閲の手間を惜しみたいのか、その時間を取られたくないのか、自分への自信から必要性を感じていないのか、単なる驕慢なのか。


ぜひにと頼まれて翻訳を引き受けるのと、自ら進んで翻訳し出版して欲しいと売り込むのでは、作品に対する熱意と真摯さの度合いもかなり違うだろうとは思う。が、結果として両翻訳者には共通する何かがあるように思える。片や東大文学部出身で准教授の肩書きを持つフランス文学研究者、片や同じ東大文学部出身でトルコ語学をも修めた日本語教育の専門家という立派な肩書きに似つかわしくもない、学部生か院生レベルかと思わされるような情けない単純誤訳と誤訳箇所の多さ、日本語表現の珍妙さ・・・。翻訳という辛く困難な仕事をいい加減にまたは楽観的に捕らえ、自分勝手な訳に満足して校閲がつい手薄になる自己肯定型の楽観主義者に違いないと。校閲とは、いわば自己批評的行為であり、自己批評は自己否定を伴う。何度も自己否定を繰り返しこれを乗り越えることなど、楽観主義者のできる仕事ではない。

翻訳者としてはそれで商業的な成功を収められるのかもしれないが、私は―そして下川氏もそのようなタイプだろうと想像するが―完璧を求めて自分の訳にもなかなか満足のできない、仕上げた訳に対してもいつまでも不安を抱えているような、あるいは世間の評価を気にして古典や大作を翻訳するなどという大それた挑戦は到底できそうもない悲観主義者であり、翻訳の世界ではそれでもいいのではないかと思っているところだ。

*1:便宜上「パムク」と表記することもあるが、私は、原音をなるべく忠実に生かす「パムック」という表記で通したい。

*2:例えば、トルコ語表現がそれぞれ異なっていても、一様に「魅せられた」を使いたがるなど、訳し分けがされていない

『奴隷商人―チューリップ時代に咲いたひとつの愛の物語』を読む(3)

              奴隷商人ムフスィン・チェレビの物語



 ムフスィン・チェレビは、枕元から取り出した貴石細工の手鏡に映る、インドの細密画に描かれている王子にも似た自分の顔に見入っていた。
 一七三〇年七月の、とある夜半のことであった。銀の燭台の上では、三本の蜜蝋が燃え尽きようとしていた。とはいえ、カンルジャ湾の入り口に面し、ピスタチオの木々が繁茂する低い丘に背中を凭れかけさせるようにして建つ奴隷商人の邸宅は、降り注ぐ月光によって中まで煌々と照らされていた。その夜は十四夜。針で髪の毛の刺繍ができるほどであった。上物の縮緬でつくられた蚊帳が、窓から海の見える部屋の四隅から細い金鎖で吊り下げられていた。月光の下で、絹は銀の粉を刷いたように輝いていた。蚊帳の内側には羽毛ぶとんが敷いてあった。繻子でくるまれた三枚のマットレスの上には、朱色の太い縞模様の縮緬のシーツが広げられ、掛けぶとんの代わりに縮緬に覆われたショールがかけられていた。
 年の頃はいまだ三十にも満たない、浅黒い肌の逞しい美丈夫であるムフスィン・チェレビの懐でひとりの女奴隷が眠っていた。いや、眠ってはいなかった。目をしっかりと閉じ、目覚めていることを悟られないようにしていた。時々、くるんとした睫毛の間から目をうっすらと開けては、貴石細工の手鏡に映る美しい顔に見入る若き主人に視線を走らせ、ご主人様が自分を起こしてくれるのを待った。
 
 ムフスィン・チェレビは、その化粧や身に着けるものがイスタンブールの流行となる若者の一人だった。実際にはウルギュップ出身の大宰相、“ネヴシェヒル出身”ダーマット・イブラヒム・パシャとは同郷人である彼は、イスタンブールでも最も裕福な奴隷商人だったのである。
 一世紀半このかた、美男美女の売買で財を築いてきた一家の資産と経験を相続したムフスィン・チェレビは、人間というもののどんな秘密をも解き明かし、人体を蜜蝋のように操ることができた。磨けば光る原石として買い上げた奴隷たちを、人種も生まれ育ちも様々な若者たちを、注意に注意を重ねてようやく手中にできる魅惑的な肌の色を、布と宝石とによって、あたかも貴金属商のように輝かせることができた。自分自身にも、奴隷市場に売りに出す浅黒い肌の奴隷であるかのように気を配った。額に下ろしたひとふさの「ムフスィン・チェレビ風前髪」、袖口をカーネーションのレースで縁取りした「ムフスィン・チェレビ風シャツ」、回りをぐるりと輪が取り巻いた朱色のアルジェリア風とんがり帽子の先端から、金糸入りの紐で下げられた一粒の真珠「ムフスィン・チェレビ風タッセル」―これらは、じゅうぶん真似るに値した。
 白地に黄色い縞の入ったダマスク織りの絹のナイトガウンの上に、臍あたりから胸の下まで覆う幅広の帯をきつく締めていた。そうすると、羽毛ぶとんの上に横たえた体躯を、実際より長く見せることができた。薄い唇が幅の広い口を縁取り、黒々として縮れた細い髭が、その顔に威厳を与えていた。
 (p.11-12)

『奴隷商人―チューリップ時代に咲いたひとつの愛の物語』を読む(2)

レシャット・エクレム・コチュ




■レシャット・エクレム・コチュ(Reşad Ekrem Koçu)


 1905年、イスタンブール生まれ。父エクレム・レシャット・ベイ(1877-1933)は、イスタンブールを拠点とする「Tarih(歴史)」「Malûmat(情報)」「Ceride-i Havadis*1」の各新聞社で働いた後、コンヤ工業学校の校長に就任し、救国戦争終結までこの任を務める。この間、『Babalık(父性)』新聞にも記事を書き、コンヤを離れイスタンブールに戻ると、1925年から『Cumhuriyet(共和国)』新聞の地方ニュース局長として終生この任を勤め上げる。
 1921年にブルサ男子高等学校を卒業したレシャット・エクレム・コチュは、イスタンブール大学文学部歴史学科を1931年に卒業。その人生にも作品にも大きく影響を与えることになるアフメット・レフィック・アルトゥナイに師事し、卒業後も同大学で助手として勤めはじめる。しかし1933年の大学改革で数多くの教員が人員整理の対象となると、アルトゥナイともに大学を離れることになる。
その後、歴史教師として異なる高校を転々とする一方で、何種類もの雑誌、新聞で詩や少年小説のほか、オスマン時代の興味深い事件や人々を題材にした歴史物語を発表する。そのうち出版されたのは一部にすぎず、いまだ日の目を見ていない論考は何百にものぼる。
 しかしレシャット・エクレム・コチュといえば、なによりもイスタンブール百科事典(İstanbul Ansiklopedisi)』の著者として知られる。様々な角度からイスタンブールの細部を描写した挿絵入りのこの大作は、残念ながら彼自身の困窮が原因で、第11巻のGの途中までで未完成に終わる。
 1975年没。



代表作

○ 『宦官長の私生児 Kızlarağasının Piçi』 (1933)
○ 『ハティジェ・スルタンと画家メリング Harice Sultan ve Ressam Melling』(1934)
○ 『昔のイスタンブール―酒場と女装の踊り子 Eski İstanbul’da Meylaneler ve Meyhane Köçekleri』(1947)
○ 『歴史のなかの不思議な出来事 Tarihimizde Garip Vakalar』(1952)
○ 『オスマン朝のスルタンたち Osmanlı Padişahları』(1960)
○ 『男少女 Erkek Kızlar』(1962)
○ 『山を治める王たち Dağ Padişahları』(1962)
○ 『奴隷商人 Esircibaşı』 (1962)
○ 『フォルサ・ハリル Forsa Halil』(1962)
○ 『イェニチェリ Yeniçeriler』 (1964)
○ 『オスマン帝国史のパノラマ Osmanlı Tarihinin Panoraması』 (1967)
○ 『征服王スルタン・メフメット Fatih Sultan Mehmed』 (1965)
○ 『パトローナ・ハリル Patrona Halil』(1967)
○ 『カバックチュ・ムスタファ Kabakçı Mustafa』(1968)

*1:1840年、イギリス人実業家ウィリアム・チャーチルによって創刊される。トルコの出版史において、トルコ語で印刷された初(二紙目とも)の新聞。