京都精華大学オルハン・パムック講演会より(3)

Bu da, her gün almam gereken ilacın nitelikleri konusunda biraz daha bilgi veriyor. İlacın kuvvetinden, hem hayattan hem de hayal gücünden çok beslenmiş olması gerektiğini anlıyoruz.

このことから、毎日飲む必要がある薬の性質について、さらに分かることがあります。薬は、うんざりしていること、さらに人生と想像力からしっかりと養分を与えられていることが必要なのだ、ということが理解できます。


[kuvvet]とは、「力/威力/強力さ」ということである。したがって[İlacın kuvvetinden...i anlıyoruz]で、「薬は、その威力/強さから・・・だということを、わたしたちは理解する」となる。「うんざりしていること」という言葉は、原文のどこにも見出せない。見間違えたか、単純に書き間違え/言い間違えたのだろうか?


このことがまた、わたしが毎日「服用」しなければならない薬の性質について、もう少し情報を与えてくれます。つまり薬は、その強さから、人生からも想像力からも十分に栄養を与えられたものでなければならないということが理解できるのです。


Bir itirafta bulunmanın zevki ve kendim hakkında doğruyu söylemenin korkusuyla yürüttüğüm bu mantığın önemli ve ciddi bir sonucu var, ona hemen gireyim. Yazmanın bir ilaç ve teselli olarak irdelendiği kısa bir roman kuram: Benim gibi bazı romancılar, romanlarının konularını, biçimlerini bu günlük hayal ihtiyacına göre seçerler.

告白する悦びと、自分について本当のことを言う怖れを感じつつ、ここまで展開してきた論理の重大な結論があります。それについて述べましょう。“書くこと、薬、そして慰め”として吟味した短い小説理論です。このような小説家たちのなかには、小説のテーマや形態を、この日々感じる、空想することの必要性に応じて選ぶ人たちがいます。


「書くこと、薬、そして慰め」と箇条書きのタイトル風に語られているのが奇妙である。ここは「書くことが、薬として、そして慰めとして吟味される」言い換えて、「書くことを薬として、そして慰めとして吟味した」となるべきであろう。


何かを告白することの快楽と、自分自身について真実を語ることの怖れとともに進めてきたこの論理には、重大なひとつの結論があります。今それについて説明します。書くことを、ひとつの薬であり慰めとして分析する短い小説理論です。つまり、わたしのような一部の小説家は、小説のテーマや形態を、この、日々空想する必要性に応じて選んでいるのだということです。


Sanki her şey basitleşmiş, bu basitliği içinde, camdan yapıldığı için içlerini gösteren evler, arabalar, gemiler, binalar gibi sırlarını bana vermeye başlamıştır.

まるで何もかもが単純明快になったようで、この単純さの中では、ガラスでできていて中が見える家や車や船やビルなどが、それぞれの秘密をわたしに語り始めるのです。


[gibi]=「〜のように」を見逃したか、無視してしまったために、主語がずれてしまったようだ。ここでの主語は、あくまで[her şey]であろう。「何もかも・・・のように、秘密を私に語り始めるのです」であり、家や車や船やビルが秘密を語るわけではないだろう。


まるであらゆるものが単純化してしまい、その単純さの中にあって、まるでガラスでできているために中が見えてしまう家、車、船、建物のように、その秘密をわたしに打ち明けはじめたかのようなのです。


Yazarlığın en güzel yanı, eğer yaratıcı yazarsanız bir çocuk gibi dünyayı unutabilmek, gönlünüzce oynayıp eğlenirken kendinizi sorumsuz hissedebilmek, bildik dünyanın kurallarıyla oyuncaklarla oynar gibi oynayabilmek ve bütün bunları yaparken de aklınızın bir köşesiyle bu çocuksu ve özgür şenliğin arkasında daha sonra okuyanları bütünüyle bağlayacak derin bir sorumluluğun varlığını hissetmektir. Bütün gün oyun oynarsınız, ama derinden derine herkesten daha ciddi olduğunuzu da hissedersiniz. Hayatın özünü, onunla doğrudan karşılaşmanın gücünü, yalnızca çocukların yapabileceği bir içtenlikle ciddiye almışsınızdır. Özgürce kurup oynadığınız oyunun kurallarını kendiniz cesaretle koydukça, okurların da bu kuralların, dilin, cümlelerinizin, hikayenin çekimine kapılıp sizi takip edeceklerini hissedersiniz.

作家であることの最も素晴らしい面は、クリエイティヴな作家であるなら、子供のように世界を忘れられ、心の赴くままに遊び楽しむ際に、自分に責任を感じずにいられ、おもちゃで遊ぶかのように既存の世界の法則と戯れられ、そしてこれらすべてをやっている最中にも、頭のどこかでは、この子供らしい自由な楽しみの影には、後に読者たちを完全に結びつける重い責任があるということを感じ取ることなのです。一日中遊んでいても、奥深いところでは誰よりも真面目であることを感じるでしょう。人生の本質を、誠実さを、子供たちだけにできる心からの真剣さで受け止めてしまっているのです。好きなように設定して遊んだ遊びのルールを、自分の手で勇気を持って確定すればするほど、読者たちもこのルールも、言葉も、文章も、物語の魅力に捕われ、自分の後をついてくるはずだという風に感じるのです


原文は、オクラホマ大学で行われた講演から採録したものであり、聴衆は学生(おそらく文学専攻)や作家志望者を想定していると思われる。が、聴衆に対して熱心に語りかけるパムックのメッセージは、実は、訳文全体を通じ、まるで単なる空想癖のある人間の一人語り・うわ言のように宙に浮いてしまっている。この箇所はその典型的な例といえるだろう。
原因は、主語・人称が徹底的に省略され、訳文に反映されていないことにある。そのため、パムックが誰について語り、誰に対し語りかけているのかが不明瞭で、メッセージがストレートに伝わってこないのだ。日本語がいくら主語を省略する言語だ、としても、省略しすぎもまた困ることがよく分かる。
なお、[onunla doğrudan karşılaşmanın gücü]は、「それ(人生の本質/真髄)と真正面に向き合う力」という意味である。「誠実さ」は、いったいどこから引き出されてきたのだろうか?


作家であることの最も素晴らしい面は―もしあなたがたがクリエイティヴな作家であるなら―子供のように世界を忘れてしまえること、心ゆくまで遊び楽しみながら、自分自身が何の責任もないものに感じられること、既知の世界のルールとも、まるでオモチャで遊ぶかのように遊べること、そしてこれら全てを行いながらも、頭の片隅で、このような子供らしい自由気ままなお祭り騒ぎの裏側に、後々、読者を完璧に繋ぎとめなければならないという奥深い責任が横たわっているのを感じることなのです。一日中、遊んでもかまいません。ですが、奥底のほうでは、自分が誰よりもはるかに真剣であるということも感じられることでしょう。人生の真髄を、人生の真髄に真正面から立ち向かう力を、子供だけが持つことのできる生真面目さで信じられたことと思いますあなたがたが自由な思いつきで遊んだゲームのルールを、あなたがた自身が勇気を奮って定めていくたび、読者も、このルール、言語、文章、物語の引力に引き寄せられて、あなたがたの後ろから着いてきてくれるに違いないと感じられることでしょう



(4)につづく