赤と黒―楽観主義と悲観主義

(今回の投稿は、いつも以上に歯に衣着せぬ辛辣なものになっています。ご気分を害されたくなければ今のうちにご遠慮ください)


ここ一、二日の『赤と黒』新訳をめぐる白熱した誤訳論争も、ようやく沈静化したようだ。いつか文芸翻訳者の末席に着けることを願い、今は人垣の隙間から翻訳出版の世界を遠巻きに眺めている立場に過ぎないというのに、今回の論争は自分にとってあまりに身近に感じられるものだった。
 ―あまりにも似ている―
フランス語とトルコ語というソース言語の違いはあれ、また古典と現代文学、作家と翻訳者自身の知名度の違いはあれ、これほどの誤訳をしでかしてしまう翻訳者はどこにでもいるということなのだろう。
他でもない、オルハン・パムック*1作品の翻訳のことである。


下川教授が、時に辛辣な言葉を織り混ぜながら指摘した誤訳の数々は、私には至極もっともで当然の指摘であるように思われた。氏の気持ちはよーく分かる。長年、スタンダールに関わり、スタンダール研究がライフワーク―もはや人生の一部となっている研究者であれば、作品を汚され、作家を冒瀆されたかのような印象を受けたとしても不思議ではない。「駄本」であり「回収」「絶版」にすべき、とまでは言い過ぎと思えなくはないが、それほどの強い義憤、無念な気持ちが筆を滑らせたに違いない。

一方、私自身はというと、オルハン・パムックに対する強い思い入れはもともと持ち合わせてはいなかったが、何冊かを読み、試訳を行ったのをきっかけとして、一種の愛着を抱くようになったことは確かだ。万が一、私がオルハン・パムックの研究者であったり、彼の熱狂的な信奉者であったならば、下川氏同様、黙ってはいられないだろう。誤訳と問題表現の膨大なリストを用意し、藤原書店に送りつけていたかもしれない。

赤と黒』新訳が「大小の誤訳の総計は数百箇所に上る」「まるで誤訳博覧会」であれば、オルハン・パムックは一体どういうことになるだろう?訳書を手に入れ、頭から比較してみるのが手っ取り早い方法だが、トルコ語版を持っているので、悪訳書を正値でまで購入する気にはなれないし、誤訳箇所の抽出とリスト化に精力を傾けられるほどの熱意も時間も持てない。従っていまだに訳書は一冊も購入していないし、中古品の値段がじゅうぶんに下がるまで今後も購入予定はない。しかし、ウェブ上で見ることのできる様々な形の抜粋から伺い知ることのできる限り、たかが数行〜半頁ほどの訳文中に散見される誤訳および不適切な表現の数から類推して、問題箇所は少なく見積もっても一頁あたり平均1〜2箇所。もし全600頁にもなる作品であれば、数え方次第では千箇所にも上るだろう。さしずめ「誤訳の博物館」というところだろうか。


また、下川氏の書評にある以下の表現にも、パムック作品の既訳を思い浮かべては、いちいち膝を打った。

訳し忘れ、改行の無視、原文にない改行、簡単な名詞の誤りといった、不注意による単純ミスから、単語・成句の意味の誤解、時制の理解不足によるものまで誤訳の種類も多種多様であり

パムックでいえば、いわゆる「訳抜け」あるいは意図的な削除・簡略化、ごく単純な見間違い、構文の理解不足、成句の理解不足あるいは勝手な意味の転換

訳文の日本語も、漢字の間違い、成句的表現の誤り、慣用から外れた不自然な語法等様々な誤りが無数にある。

パムックでいえば、日本語としての構文の破綻、主従の不明・不一致、会話表現・語尾等の不統一、同じく慣用から外れた不自然な表現、語彙不足に派生すると思われる表現の単一化・画一化*2

・・・欠落が奇妙な誤訳を生んでいる。・・・訳し落としたことに気づかないだけでなく、原文を歪めて辻褄を合わせている。なぜそんなことをするのか全く理解不能で、訳の欠落は不注意によるものではなく、故意かもしれない。

パムックの場合もまったく同じことがいえる。見間違い、あるいは訳抜け、あるいは勝手な構文解体と再構築により生まれた齟齬を埋めるための辻褄合わせ(私はこれを「こじつけ訳」と呼んだ)。


「原文を改竄」「原文を添削」という表現が適切かどうかは分からぬが、パムックの場合も「原文軽視」が甚だしいのである。例えば、あまりに冗長な部分を無視・割愛することで、訳が「読みやすく瑞々し」くなるならまだよい。読みにくく古臭く、居心地の悪さだけが残るパムックの訳文のケースは、あえて率直に言うならば、「原文を貶めている」ともいえる。それだけ「手前勝手」の加減は甚だしく、出来上がった日本語は原文からも自然な日本語からもしばしばかけ離れたものになっている。さしずめ「不実な醜女」というところであろうか。


私たち実務翻訳者は通常、「原文に忠実」であることをまず第一義に考える。「忠実」であるとは、原文に誠実に向き合い、そこに何が書かれてあろうと、それを100%表現することに全精力を傾けることである。よく言われることだが、基本は「何も足さず、何も引かず」である。なによりもまず「原文ありき」であり、出過ぎた真似はご法度である。

実務であれば、意味的にぴったり一対一対応する訳語が見つかるまで、場合によっては一つの単語、一つの用語に30分もかけて調べることがある。分からない表現があれば、分かるまで調べ尽くす。分からないからと端折ったり、まったく意味の異なる言葉に置きかえてしまったりするのは、問題外だ。
しかし、これはなにも実務翻訳だけのことではなく、文芸翻訳にも言えることなのではなかろうか?一作家が10年を費やして書き上げた大作を翻訳するのである。どれだけ真摯に、誠実に、それこそ「針で井戸を掘る」ように原文と向き合い、一語一語、一文一文を訳し続け、それに10年を費やしたとしても、完璧な翻訳というものはありえない、それが翻訳という仕事なのだ。やっつけ仕事など、作家の労苦に対しても作品の価値に対しても非礼このうえない。

不注意による誤訳、訳抜けがあったとしても(下訳の段階では多少なりともあるのが普通であるが)校閲を重ねることでひとつずつ正していくことができる。成句の解釈間違いや構文解読の間違いも、校閲するうちに自ら間違いに気づくことがある。日本語表現を磨き上げるのも同様である。見直せば見直すほど、磨けば磨くほど訳の質は向上し輝きを増していく。
このような誤訳の大安売りをしてしまう『赤と黒』の新訳者やパムックの翻訳者は、その校閲の手間を惜しみたいのか、その時間を取られたくないのか、自分への自信から必要性を感じていないのか、単なる驕慢なのか。


ぜひにと頼まれて翻訳を引き受けるのと、自ら進んで翻訳し出版して欲しいと売り込むのでは、作品に対する熱意と真摯さの度合いもかなり違うだろうとは思う。が、結果として両翻訳者には共通する何かがあるように思える。片や東大文学部出身で准教授の肩書きを持つフランス文学研究者、片や同じ東大文学部出身でトルコ語学をも修めた日本語教育の専門家という立派な肩書きに似つかわしくもない、学部生か院生レベルかと思わされるような情けない単純誤訳と誤訳箇所の多さ、日本語表現の珍妙さ・・・。翻訳という辛く困難な仕事をいい加減にまたは楽観的に捕らえ、自分勝手な訳に満足して校閲がつい手薄になる自己肯定型の楽観主義者に違いないと。校閲とは、いわば自己批評的行為であり、自己批評は自己否定を伴う。何度も自己否定を繰り返しこれを乗り越えることなど、楽観主義者のできる仕事ではない。

翻訳者としてはそれで商業的な成功を収められるのかもしれないが、私は―そして下川氏もそのようなタイプだろうと想像するが―完璧を求めて自分の訳にもなかなか満足のできない、仕上げた訳に対してもいつまでも不安を抱えているような、あるいは世間の評価を気にして古典や大作を翻訳するなどという大それた挑戦は到底できそうもない悲観主義者であり、翻訳の世界ではそれでもいいのではないかと思っているところだ。

*1:便宜上「パムク」と表記することもあるが、私は、原音をなるべく忠実に生かす「パムック」という表記で通したい。

*2:例えば、トルコ語表現がそれぞれ異なっていても、一様に「魅せられた」を使いたがるなど、訳し分けがされていない