アーンティ・ネリー/オスマン人に嫁いだあるイギリス女性の半生(10)


§困難な時代-3


 その頃、フェリット・パシャ内閣が解散しました。新しい議会システムが検討されるなか、スルタンの影響力を制限するという点で、メフメット・アリは仲間と同じ意見を抱いていました。
 敵対関係にある内務大臣アリ・ケマルがリンチを受けたという知らせは、アナトリアでの独立戦争の成功を一番に願うメフメット・アリの血圧を上昇させました。静かな部屋で夫をゆっくり休ませた私は、卒業試験から戻ったセヴデティの様子がおかしいことに気付きました。高熱でした。肺炎の可能性がありましたが、熱が下がっても咳はひどくなるばかりでした。その段になって結核の診断が下されました。メフメット・アリはすぐに、結核の療養地として知られたダヴォスに行こうと提案しました。何ヶ月かの療養生活の後、セヴデティは次第に健康を取り戻し、回復したらイギリスに連れて行く予定まで立てていました。が、長引く闘病生活でセヴデティの心臓はすっかり弱っていたようです。心臓発作で帰らぬ人となりました。私たちはセヴデティの遺体とともにイスタンブールに戻りました。


 何ヶ月もイスタンブールを後にしていたことは、メフメット・アリを政治の舞台から遠ざけることになりました。国会議員選挙に立候補することができず、ムスタファ・ケマルもまるでメフメット・アリの存在を忘れたかのようでした。
 その頃、ギリシャ軍はアナトリア内陸部まで侵攻してきていました。


 ブユックデレにある海辺の屋敷は1915年以来手直しできなかったため、あちらこちら痛んでいました。修繕するにも、莫大な費用が必要でした。1923年には、海辺の屋敷を、またそれ以外にもいくつかの土地を売却しました。


 それからしばらくし、我が軍の勝利の吉報が届きました。スルタン・ヴェフデッティンは退位させられました。カリフ制と王制は分けられ、アブドュルメジット候がカリフに就任しました。その権能は制限されつつも、カリフはそのまま存続するだろうと多くの者が考えていました。カリフ制が廃止されれば、イスラム世界におけるトルコという国の重要性は失われるだろうとメフメット・アリも考えていました。が、そうはいきませんでした。アンカラで新政府が樹立され、共和国の成立が公布されました。この難行を成功させたのはムスタファ・ケマルでした。誰もが祝福しあい、ムスタファ・ケマルを賞賛する歌が歌われました。
 メフメット・アリも、考えられうる最も優れた国家システムが共和国であると考えてはいましたが、ムスタファ・ケマルのあまりの性急さに危惧を隠しませんでした。オスマン朝の皇族は外国に追放となりましたが、その中に知人が多く含まれていたために心を痛めていました。


 その頃、義弟セラハッティンは外務省で働いていましたが、第二書記官としてパリ駐在の任が下り、非常に喜んでいました。引継ぎのために夜遅くまで残業を重ねるセラハッティンの疲労はかなりのものになっていました。深夜、使用人に呼ばれて駆けつけると、セラハッティンは血を吐いて倒れていました。医者は奔馬性肺結核で助かる見込みはないと診断しました。症状はまたたく間に進行し、帰らぬ人となりました。


 メフメット・アリにとっても、状況は厳しいものでした。選挙を前に戒厳令が発令され、野党の存在は危険とみなされて党がつぶされる可能性が出てきたのです。かつて最大の援助を惜しまなかったムスタファ・ケマルが、今や独裁者のように振舞っていると腹を立てていました。メフメット・アリがそのような考えを明らかにするにつれ、それは新参の取り巻きたちによって誇張されたかたちでムスタファ・ケマルの耳にまで届くようになり、両者の間には隙間風が吹くようになりました。
 1925年の初めのことでした。野党やムスタファ・ケマルに反対する者たちで占められる逮捕者リストが作成されており、逮捕者は処刑されるという情報が伝わってきました。そして、そのリストの筆頭にメフメット・アリの名があるというのです。ここ数ヶ月、尾行されていることには気付いていました。なるべく速やかに国外に逃亡するより他に方法はありませんでした。
 私たちは売りに出していた海辺の屋敷を完全に空にし、家具・調度品を始末せねばなりませんでした。祖先から伝わる品々に、自分の趣味で選んで加えた調度品を手放すのは辛い仕事でした。旅立ちの理由は、長女のレイラと義弟ケマル以外の誰にも打ち明けませんでした。
 3月のある日、明け方近く、誰にも悟られないようこっそりと屋敷を抜け出し、ルーマニア行きの貨物船の出る桟橋へと向かいました。この亡命生活は長くは続かない、ふさわしい時がきたら戻って来られるのだと、私たちは自分たちに言い聞かせていました。