アーンティ・ネリー/オスマン人に嫁いだあるイギリス女性の半生(13)


§パリでの流刑の日々―3


 ムスタファ・ケマルとイスメット・(イニョニュ)パシャの間に隙間風が吹いているという噂が届きました。ジェラル・バヤルが首相に任命されると、国外追放処分となった150人に対し恩赦の発令がなされました。
 キャーミルから手紙が届きました。大学で学部長に就任し、同時に、語学講師として大学でともに働くイタリア人のマリアとの結婚を決めたという内容でした。ルガーノに住む婚約者の家族に会いに行った後、私たちに会いにくるそうです。もう7年以上も息子には会っていませんでした。
 8月の終わりに、キャーミルは婚約者マリアを連れて帰ってきました。マリアは教養のある上品な娘さんで、先入観のあったメフメット・アリもすぐに気に入ったようでした。週末にはニヤーズィも戻り、久しぶりに家族全員で楽しい日々を過ごしました。キャーミルから、ニヤーズィはランバンのモデルをしているシャルロットという娘と暮らしていると聞きました。ニーメットもダニエルという若者と付き合っていて、プロポーズされているのだそうです。ふたりのことはメフメット・アリには口が裂けても言えませんでした。


 イスタンブールに戻る日のことを考えていた頃、アタテュルクが重病で、ほどなくして亡くなったという知らせが届きました。この知らせは、少なからずメフメット・アリの心を揺さぶったようでした。
 クリスマスが近づくと新しい注文が舞い込みはじめましたが、メフメット・アリは仕事を請けることを断固として反対しました。遅くとも6ヶ月後にはイスタンブールに発つのだから、手持ちのお金だけで十分暮らせるというのです。ですが、クリスマスを目前にして、貯金は残りわずかになっていました。
 ニーメットがクリスマス休暇をリヨンのニヤーズィのところで過ごしたいと言い出し、初めて二人きりのクリスマスを過ごすことになりました。メフメット・アリはレストランを予約したといい、私はわずかに残されたドレスやアクセサリーで精一杯めかし込みました。タクシーに乗り込みと、私が驚くなかメフメット・アリがホテル・リッツの名前を告げました。素晴らしい晩餐を終えると、セーヌ河畔を散歩し、教会で聖歌隊のコーラスに耳を傾け、ろうそくに火を点した後、夜遅く帰宅してから互いのプレゼントを開きました。ふたりきりの素晴らしいクリスマスでした。


 恩赦が与えられたといっても、後先かえりみずにトルコに帰国するには、あまりに心配事が多すぎました。60歳を越えたメフメット・アリにどんな仕事があるというのでしょう。それに、150人の流刑者のほとんどは売国奴とみなされていましたから、どんな対応を受けるか分かりませんでした。レイラの親戚にあたるラフミ氏は、今が帰国に最適の時期だから帰ってくるようにと再三書いて寄越しました。
 帰国の日は10月3日に決まりました。メフメット・アリの強い勧めでトルコで兵役に就く予定だったニヤーズィはリヨンから到着する列車には乗っていませんでした。見知らぬ乗客に託されていたニヤーズィの手紙には、シャルロットが妊娠3ヶ月に入り、彼女と生まれてくる子供を放ってトルコには行けないと書いてありました。


 列車がイスタンブールに到着しました。必ず迎えに行く、ホテルになど泊まる必要はない、クズグンジュックの我が家に来るようにと言ってくれたラフミ氏の姿はどこにも見当たりませんでした。夕刻になり、当初の予定通り、私たちはテペバシュにあるコンチネンタル・ホテルにチェックインしました。
 翌朝、アンカラからレイラが駆けつけました。ラフミ氏の態度をいぶかるレイラと一緒に、クズグンジュックの屋敷を訪問することになりました。屋敷では、下の階にラフミ氏が、上の階にレイラの姑にあたるゼキイェ夫人が住んでいるのです。ラフミ氏の家の扉を叩いても、誰一人出てきませんでした。ところが、実は居留守を使っていたのです。あれほどしつこく戻るように勧めた張本人だというのに。人の心はそれほどに変わりやすいものなのです。


 イスタンブールに来て、十日が経っていました。ホテル住まいの私たちを訪問する人々は、好き勝手な憶測やアドバイスを口にしては帰っていきました。メフメット・アリはホテルのロビーでアンカラから来た訪問客に応対していました。私は、レイラやニーメットと一緒に部屋でおしゃべりに花を咲かせていました。突然、ドアが激しくノックされました。レセプションの人間が、メフメット・アリが倒れたことを告げに来たのです。階段を跳ぶように下りてロビーに駆けつけました。メフメット・アリは口から泡を吹いて、苦しそうに息をしていました。そして病院に運ばれる途中、とうとう息を引き取ってしまいました。医師の診断によると、死因は心臓発作だということでした。15年ぶりに叶った帰国の興奮と帰国以来のストレスに、彼の心臓は耐え切れなくなっていたのです。娘たちに慰められながら、私は一晩じゅう泣き明かしました。
 埋葬の準備は、知人たちが行ってくれました。一家の墓地のあるメヴレヴィー僧院の庭は国有化される予定でしたので、そこには埋葬できませんでした。ズィンジルクユ墓地に場所を見つけた私たちは、10月19日、奇しくも私の誕生日にメフメット・アリの亡骸を埋葬しました。私はもう泣いていませんでした。棺が土のなかに下ろされるとき、私はメフメット・アリに約束しました。いつか必ずここに、あなたの横に来ますから、待っていてくださいと。