アーンティ・ネリー/オスマン人に嫁いだあるイギリス女性の半生(12) 


§パリでの流刑の日々―2



 夏が終わり、冷え込むことが多くなりました。室内はガスで暖房していましたが、一人の時は使わないようにしていました。それでなくとも、座っている暇などなかったのです。クリスマスの前にはたくさんの縫い物をしました。子供たちにはシャツやワンピースを、知人には様々な色彩のキルティングの布でテーブルクロスやティーコゼー、鍋つかみを作りました。
 クリスマス・イヴには全員で市中の散策に出かけ、子供たちはメフメット・アリと一緒にトーキーの映画を観に行きました。一人で先に家に戻った私は、クリスマス・プレゼントをそれぞれのベッドの上に並べ、晩餐の支度をしました。その夜、ベルリンからキャーミルが到着すると、それが私たちにとって一番のプレゼントになりました。2年ぶりの再会でした。
 翌朝、花束を抱えてクリスマスの挨拶にやってきたレストラン“シェ・ヌー”の女主人ニネットは、私に思いがけない提案をしました。彼女に贈ったテーブルクロスと同じものを、新年までに15枚縫ってくれないかというのです。新年まで、5、6日しかありません。私はその場で承諾せざるをえませんでした。私は昼夜を問わず縫い続け、緑色の地に赤色のプリーツ、中央にポインセチアの花をアップリケしたテーブルクロスと、赤色のナプキン40枚を30日の晩に仕上げました。
 これがきっかけとなって、次第に他の店からの注文も入るようになりました。かつて学校で嫌々習った料理や裁縫、刺繍の技術が、今になって自分の身を助けることになりました。収入が増えたので、もう少し良い家に引っ越すことができ、子供たちには別々の部屋をあてがうことができました。台所は広く、オーブンもありましたので、ケーキやクッキー、ジャムなどの注文を受けることができるようになりました。
 仕事にも慣れて自分の時間を持てるようになると、私は子供たちやイスタンブールの友人たち、イギリスのきょうだいたちに次々と手紙を書き送りました。キャーミルは大学を卒業し、歴史・考古学の博士課程に進むため、カイロ大学への進学を決めました。ニヤーズィも商業学校を卒業するとリヨンで職を見つけ、家を離れていきました。


 イスタンブールから届いた新聞を何気なく眺めていました。1933年10月29日は、共和国設立10周年記念を盛大に祝ったようでした。すでにラテン文字に移行していましたので、私にも楽に読むことができました。春になる頃には、姑ハフィゼ夫人の訃報が届きました。
 1934年の夏の終わり、姪のベルクスから手紙が届きました。夫フルキが血行不良による問題を足に抱えていて、その治療のために近々やってくるという知らせでした。もう10年も親類の誰とも会っていなかった私たちは、とても喜びました。ニヤーズィもリヨンから駆けつけ、思い出話や噂話に花を咲かせました。


 氏姓法が施行されることになりました。トルコ大使館から、一週間以内に希望する姓を知らせるようにという文書が私たちのところにも届き、急いで決めなければなりませんでした。メフメット・アリは「ゲレデリ(ゲレデ出身)」という姓を希望していました。祖父がハンガリーから移住した際に、スルタン・アブドュルメジットにゲレデの土地を与えられ、それから皆に「ゲレデリ」アリ・パシャと呼ばれるようになったからです。
 結局、もう少し短い姓として「ゲレデ」を選ぶことになりました。しかし、与えられた日数が余りに短かったため、イスタンブールとソフィアに住むふたりの甥に知らせる時間はありませんでした。甥たちはそれぞれ別の姓を選び、姓の上でも家族がまた別れ別れになってしまいました。


 子供たちは成長し、メフメット・アリは、子供たちが外国人と結婚するのではないかと心配するようになりました。トルコであればかまわないが、異国の地で子供たちまで外国人と結婚してしまうと、祖国トルコとの縁が完全に切れてしまうかのように感じていたのです。ニーメットが高校を卒業すると、トルコ語の上達のためと理由をつけて、アンカラに住むレイラの元に行かせることになりました。レイラもすぐにニーメットの花婿候補探しに乗り出しました。一ヶ月も経たないうちに、造船技師で海軍将校のムヒッティン氏と婚約したという知らせが届きました。
 次は息子たちの番でした。長男キャーミルは30歳を超えていましたが、いまだに独身で、近々カイロ大学で教授に就任することになっていました。次男ニヤーズィは、今の仕事を失ってまで、2年間の兵役のためにトルコに戻ることは考えていませんでした。
 ニーメットの結婚式の前に婚約者と家族に会うための計画を立てていたところへ、ニーメットからの手紙が届きました。婚約者とは別れたと、ごく手短かに書いてあり、これはメフメット・アリを怒らせました。パリに戻ったニーメットから詳しい事情を聞いた私たちは、ニーメットの決断が正しかったと判断せざるを得ませんでした。さらに後日、恐ろしい知らせも届きました。ムヒッティン氏は長年、結婚を反対された女性と暮らしていたそうですが、ニーメットと婚約するにあたって別れさせられたその女性が、腹いせにでたというのです。ニーメットと別れてすぐに他の娘と結婚したムヒッティン氏の家にこっそり爆発物を仕掛け、その爆発でムヒッティン氏と彼の新妻は亡くなったのだそうです。
 まもなく落ち着いたニーメットは出版社で仕事を見つけ、働き出すようになりました。