"Masumiyet Müzesi"を読む(1)
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それが自分の人生でもっとも幸福な瞬間だったとは、気づいていなかった。気づいていたら、この幸せを守れたし、すべてがまったく違った方向へ進んだのだろうか?そう、それが人生で一番しあわせな瞬間だと分かっていたなら、決してその幸福を手放しはしなかったろう。
1975年5月26日月曜日、午後2時45分頃。主人公ケマルが若き恋人フュスンと初めて結ばれたときの記憶から、この物語は始まっている。ケマルの鮮明で詳細な記憶をもとに、ケマル自身が語り手となるようなかたちで滑りだすこの物語は、それ自身がケマルによる、フュスンとの、ふたりの思い出のコレクション、つまり「博物館」のようなものだ。
タイトルの“Masumiyet Müzesi”は日本語でどう訳されるべきか、つらつらと考えている。
すでに英語では“The Museum of Innocence”、ドイツ語では“Das Museum der unschuld”、フランス語では“le Musee de l’innocence”と訳されているように、多くの西洋諸語ではほぼ一対一訳が可能になるが、日本語に訳す場合、訳語選択が決して容易ではない。*1
Masumiyet(=Masumluk)とは、辞書訳ではこうなる。1)無実、無罪、潔白 2)純粋、純潔、純真、無垢、純朴、無邪気 3)幼児
物語の主題から考えれば、1と3は該当しないだろう。*2明らかに2番目の意味にあたるが、さて、どう訳出すべきか・・・。*3
若き青年が美しい娘に当然のごとく恋焦がれるように、フュスンを追い求めるケマルの男性性を「純粋」「純真」という言葉に託すこともできようし、またこの物語が“処女性“つまり“純潔”をも取り上げている*4ことから、「純潔」という言葉に(逆説的?)意味をもたせることもできるだろう。
いずれにせよ、読了した後に再考すべき意味深いタイトルである。