アーンティ・ネリー/オスマン人に嫁いだあるイギリス女性の半生(11)


§パリでの流刑の日々−1


 私たちはイスタンブールに近く、情報の伝わりやすい場所としてルーマニアのコスタンツァ港に近いママイで逗留することにしました。私たちは移民も同然でしたが、子供たちを落ち込ませないようにと、海の見える立派なホテルで泊まることにしました。ベルリンの大学への入学が決まっているキャーミルには、申し込みに遅れないようできる限りのお金を渡して旅立たせました。ニヤーズィとニーメットをフランス学校に通わせるよう手配すると、手元にはわずかなお金しか残りませんでした。私は、適当なペンションに移ることを提案しました。大臣職にまで登りつめながら、メフメット・アリの給与以外の収入のなかった私たちは、祖先から受け継いだ生活習慣のために貯蓄というものができなかったのです。私が結婚するとき父が渡してくれた金貨の残りが、私たちを救ってくれることになりました。
 そんななか、海外に追放された皇族、宮廷出身者、旧官僚たちと、一部の海外逃亡者を含む者たちへのトルコへの再入国が禁止されました。私たちはいつ帰れるとも知れぬ流罪の身となったのです。
 売りに出していたブユックデレの海辺の屋敷は、近くが軍の施設になるという理由で買い叩かれ、半値で売ることになりました。今の私たちには、わずかでもお金が必要だったのです。


 お金を手にした私たちは、メフメット・アリがフランス語を話せることと、知人の多いことからパリで暮らすことに決めました。メフメット・アリの友達の一人が、モンパルナス周辺で小さいアパルトマンを借りてくれました。パリには、私たち以外にも同様の理由で流れてきたトルコ人がたくさんいました。その中には、かつてのスルタン・ヴァフデッティン候とカリフ・アブドゥルメジット候もいました。
 メフメット・アリは、閉じこもることなく積極的に外国人の知識人たちに交わるほか、オスマン銀行や大使館関係者の友人たちの手助けをしたりしましたが、オスマン人らしく謝礼は断固として断りました。収入のない私たちは、簡素な生活を心がけるより他ありませんでした。
 トルコに帰る希望を絶たれ、周囲の人間からさまざまな話を吹き込まれるうち、メフメット・アリの性格も変わってきました。些細なことに腹を立て、人の話に簡単に影響されるようになってしまったのです。トルコから届く新聞には、ありとあらゆる嘘が書きたてられていました。メフメット・アリは、自分を弁護する文章を内外の新聞に送るようになりましたが、それによりアンカラとの溝は一層広く深くなりました。


 シェケル・バイラム(砂糖祭)には、パリで同じような亡命生活を送っている人や、これまでに食事に招待してくれた友人、数人の宮廷関係者、あわせて10人ほどを食事に招待することにし、近所の“シェ・ヌー”というレストランを予約しました。レストランを経営している夫婦の奥さんの方は、トルコ料理を品数に加えたいという私の希望を快く聞き入れてくれました。ニネットという名の彼女は、後で聞いたことにはルーマニア出身だということでした。


 メフメット・アリが外国人向けの新聞に文章を送っているのを聞き、自分たちの、トルコ語の新聞を作ってはどうかという話を持ちかける者が出ました。ところが、新聞社に適した場所を見つけるという名目で、正直者で世間知らずなヴァフデッティン候に出資させ、メフメット・アリからもなけなしのお金をせしめた挙句、この男はイギリスに逃亡してしまったのです。ヴァフデッティン候はそれからまもなくして、傷心のうちにこの世を去りました。


 夏のはじめ頃、イズミールムスタファ・ケマルの暗殺未遂事件が起こり、多くの者が逮捕されたというニュースが伝わりました。日に日に逮捕者の数は増え、パシャが何人も逮捕、拘留されました。その中には娘婿の兄アリ・フアット・パシャもいました。やがてパシャたちは自由の身になりましたが、この事件によって、メフメット・アリは現政府に対立する考えをいっそう抱くようになりました。


 ある日、散歩の後、郵便局に立ち寄って帰ってきたメフメット・アリは、台所で顔面蒼白になって床の上に横たわっていました。手には電報がいくつか握られていました。先週、義弟のケマルが独立法廷の決定により処刑されたことに対するお悔やみの電報でした。
 このショックでメフメット・アリの血圧は危険なまでに上がりました。診察した医者は、高血圧やリューマチの治療に効果のあるエクス・レ・バンの温泉での療養を勧めました。


 エクス・レ・バンで、私たちはアメリカ人の外交官夫妻と知り合いになりました。一人息子をスキー事故で失ったショックで身体が麻痺してしまったキャシー夫人は、薬ではなくクリスチャン・サイエンスの思想が私を治してくれたのだと語り、療養所を離れる時には、これを必ず読むように、読めば人生を別の角度から眺められるようになるからと、クリスチャン・サイエンスの本と論文を私に残していきました。少しでも気が楽になるならと読み始めた私は、瞬く間にその思想に影響を受けました。今まで以上に気を強く持たねばならない私には、なによりも必要に思えたのです。
 エクス・レ・バンには2週間滞在しました。メフメット・アリは随分回復し、私も心の平穏を取り戻しました。パリに戻るとレイラからの手紙が届いていました。娘が誕生し、名をアイシェと名づけたそうです。久方ぶりに私たちが受け取った良い知らせでした。