アーンティ・ネリー/オスマン人に嫁いだあるイギリス女性の半生(9)


§困難な時代-2


 戦争に敗れました。ダーマット・フェリット・パシャ内閣で内務大臣の任についているメフメット・アリは、始終神経を尖らせ、仲間内での会合を繰り返していました。
 ある晩、メフメット・アリの血圧を測りにやってきた医者に、長らく咳き込みの続いているマクブーレを診てもらいました。最近流行している結核ではないかといいました。
 その頃の私は、外出もほとんどせず、子供たちとメフメット・アリとマクブーレのことだけを考えていました。せめて家の中だけは安らぎをと心を砕いていました。そうでなくとも、協定などどこ吹く風と、占領軍が街中を我が物顔に行き来していたのです。


 5月のある日、レイラの婚家から招待され夫婦で出かけていきました。集った男性たちの間で長い間話し合いが行われました。メフメット・アリ、イスマイル・ファズル・パシャ、長男アリ・フアットの他、その友人ムスタファ・ケマルもいました。帰り道、私たち夫婦はムスタファ・ケマルと同じ車に乗りました。メフメット・アリとムスタファ・ケマルは私には分からない符丁のような会話を続けていました。
 それからあまり経たないうちに、イズミールギリシャ軍に占領されたという知らせが届きました。その夜、夕食時に玄関のベルが鳴りました。ムスタファ・ケマルがメフメット・アリに会いに来たのです。メフメット・アリに、彼の訪問を誰にも知らせるなと口止めされました。明日は重要な一日になると、メフメット・アリは言いました。

 
 メフメット・アリは、ムスタファ・ケマルアナトリアに派遣するため、宰相フェリット・パシャから署名を取り付けるのに成功しました。ところが、自分の立場が悪くなるのを恐れたフェリット・パシャに責任を問われ、メフメット・アリは内務大臣を辞任することを決断しました。復帰要請に対してメフメット・アリが断固拒否したために、フェリット・パシャは敵対者を内務大臣に就任させ、ムスタファ・ケマルを拘束してイスタンブールに連れ戻す命令を下させました。逮捕者が続出し、処刑される者も出ました。市民の反感が募るなか、フェリット・パシャは自分を正当化し、メフメット・アリに汚名を着せようとしました。


 5月のある日、マクブーレを見舞いました。ちょうど居合わせた医者は私に目配せし、マクブーレが肺がんであることを告げたのです。


 イズミール占領以降、アナトリア各地では抵抗戦争が広まっていきました。レイラの話では、婚家の別荘の屋根裏は武器庫となり、そこからアナトリア各地へと武器が秘密裏に搬送されているのだというのです。いつ占領軍に攻め込まれるかと、私は気が気ではありませんでした。
 断食月が来ましたが、初めて断食開けの食事を配ることができませんでした。街中では故郷に帰るお金すらない兵士たちが物乞いをして歩いていました。私たちはできる限りの喜捨をしました。それでも私たちは、バイラムには家族全員で食卓を囲むことができました。ブュックデレの海辺の屋敷には短い期間しか行くことができませんでした。屋敷は修繕もできず哀れな姿で佇んでいました。それ以上に憂鬱になったのは、ブユックデレ湾が占領軍の船の停泊地になっていたことでした。
 マクブーレの容態は悪化の一歩をたどっていましたが、回復しているように振る舞い、周囲にもそれを信じ込ませようとしていました。
 そんな状況の中で妊娠に気付いた私は戸惑いました。また40を過ぎた身体には負担が大きく、出血した私に医者は休むよう指示しました。


 世情はさらに悪化していました。役所・公共施設は残さず占領軍によって占領され、危険人物とみなした者たちをマルタ島島流しにしました。
 私は回復を待たず、マクブーレを見舞いに行きました。占領軍が来て以来、通りにはチャドルを着て出るようになっていました。マクブーレの顔は蒼白で、熱のために朦朧としていました。もう長くないことが明らかでした。マクブーレと別れた後、とめどなく涙が流れました。帰り道、イギリス兵に失礼な仕打ちを受けた私は、すぐに首相宛に電報で苦情を書き送りました。悲嘆と興奮がいちどきに押し寄せたせいか、予定より早く陣痛が始まりました。7ヶ月で男の子を産み落としましたが、数時間で息を引きとりました。続いてマクブーレの訃報が届きました。唯一の慰めは、次女セヴデティが一番の成績で最終学年に進んだことでした。
 夏が来て海辺の屋敷に移ったのは、子供たちにとって最高の気分転換になりました。しかし夏の終わりにセヴデティはチフスに罹り、医者から一年の休学を言い渡されました。