『白い城』より(1)


前回記述した観点から、早速、比較検証を始めてみたい。まずは冒頭の一文から。原文、2006年に公開した私自身の試訳、宮下両氏の訳、の順で掲載し、疑問点を提示した上で、最後に現時点での私自身の決定訳を書き留めておこうと思う。


Bu elyazmasını, 1982 yılında, içinde her yaz bir hafta eşelenmeyi alışkanlık edindiğim Gebze Kaymakamlığı’na bağlı o döküntü “arşiv”de, fermanlar, tapu kayıtları, mahkeme sicilleri ve resmi defterlerle tıkış tıkış doldurulmuş tozlu bir sandığın dibinde buldum.

この手記は、1982年のこと、毎夏一週間にわたり中に籠ってほじくり回すのを習慣としていたゲブゼ郡庁所属のあの廃物「古文書館」で、勅令、登記簿、裁判記録や公的台帳類と一緒にギュウギュウに詰め込まれた埃だらけの箱の奥底で見つけた。

一九八二年、わたしはゲブゼ郡役所の閑散とした”文書庫”でこの手記を発見した。わたしは毎年夏の一週間をここで過ごし、勅令集や不動産権利書、法廷文書、あるいはその他の公的な帳簿がぎっしり詰めこまれた埃だらけの小箱を隅々まで調べるのを習いとしていた。この手記はその片隅に埋もれていたのである。

前回のブログで説明したように、当時この試訳にあたっては、原文の構造、文の長さ、節の順番までも含め、原文を最大限、日本語に反映させることに苦心した。とはいえ、これらの条件の中で訳語を選び取っていく作業は、苦しくも楽しく達成感のある作業ではあった。反対に、宮下訳のように、長文を節に分解し、いくつかの短文にまとめて書き直す作業は、一種のテクニックと相応の時間が要求され、とても私の手に負えるものではない。そして、弊害もなくはなさそうだ。この例のように、修飾関係が崩れてしまう可能性がある上に、原文にない語を補う必要がどうしても出てきてしまうのだ。

ここでは、長い修飾節ばかりを含む1文が3つの短文に書き直されている。一読すると、何の問題もないように見えるのだが、一つの修飾節が分解されたことで、間違った修飾関係が生まれてしまっている。

拙訳で説明するなら、「毎夏一週間にわたり中に籠ってほじくり回すのを習慣としていたゲブゼ郡庁所属のあの廃物」までが「「古文書館」」を、「勅令、登記簿、裁判記録や公的台帳類と一緒にギュウギュウに詰め込まれた埃だらけの」までが「箱」を修飾しているわけだが、宮下訳を読むと、「隅々まで調べるのを習いとしていた」のは、「文書庫」ではなく「小箱」だということになる。毎年、一週間も調べるほどの蔵書量がある「小箱」とはいかなる代物か。


なお、Döküntüとは、 ゴミ/がらくた/くず/廃品/廃物/散乱した物/残骸・・・というような意味である。「閑散とした」では、この文書庫に対するイメージがかなり異なってくるのではないだろうか。人気(ひとけ)は少ないながら、どちらかというと整然としたイメージが私には沸く。

ちなみにEşelenmekは、引っ掻き回す/引っ掻き回して捜す/掻き回す/捜し回る・・・という意味であり、後ろの方でやはり「紙くずの山」(宮下訳)、「ゴミ捨て場」(拙訳)という表現が出てくるので、「閑散とした」では不適切といえるのではないだろうか。



この手記は、1982年のこと、わたしが毎夏一週間にわたり中に籠って引っ掻き回すのを習慣としていたゲブゼ郡庁所属のあの廃物「文書庫」で、勅令、土地登記簿、裁判記録や公的台帳類がぎゅうぎゅうに詰め込まれた埃だらけの箱の奥底で見つけた。