『イスタンブール』より(3)

 Amazonなか見!検索」ページからの引用は前回までで、今回は『イスタンブール』読者の方のサイトからお借りした。
 http://f43.aaa.livedoor.jp/~choku/20070709.html#istanbul_orhan_pamuk


町のこの白黒の魂を捉えているので、ル・コルビジエのような東方に関心のある旅行者が遺したスケッチや、イスタンブールを舞台にした手描きの白黒の挿絵入りの小説に魅せられた。(p.55)

 ―第5章 モノクローム―より(原文p.42)

Şehrin bu siyah-beyaz ruhuyla beni hemen başbaşa bıraktığı için, Le Corbusier gibi meraklı Doğu yolcularının çizdiği kara kalem resimlere bakmaktan, İstanbul’da geçen elle çizilmiş siyah-beyaz resimli romanları okumaktan zevk alırım.


 スケッチや小説が「白黒の魂を捉えている」ので、ということだろうが、「捉えている」という訳語は、実は原文からずいぶんと飛躍している。
 başbaşa bırakmak は、「2人きりにする」という意味である。「モノクロームの魂/精神と私をすぐにふたりきりにしてくれる」つまり、「モノクロームの魂/精神と、すぐに一対一になれる」という意味になる。

 また、「魅せられた」もかなりの意訳である。...bakmaktan....okumaktan zevk almak は、「〜を見たり、〜を読んだりすることで楽しむ/喜びを見出す」という意味である。



都市の、このモノクロームの魂とすぐさま一対一になれるので、私は、ル・コルビジェのように好奇心旺盛な東方旅行者の描いた鉛筆画を眺めたり、イスタンブールが舞台となった、手描きのモノクロ挿絵の入った小説を読んだりすることに喜びを見出すのである



1)エルヴィヤ・チェレビの『旅行記の2)近代トルコ国家での「短縮版」は、隠れた検閲に引っかかることもなく、3)どこかのページを開けてみると、この一番古典的と言われるオスマン朝の作家でさえも、ある町の説明するとき、家屋、モスク、風光や珍しいものに触れるとき、その都度、美しい少年たち(稚児)たちについて触れているのである。(p.211)
 ―第18章 レシャット・エクレム・コチュの知識とその奇妙なコレクション『イスタンブール百科事典』―より(原文p.157)

1)Evliya Çelebi’nin Seyahatname’sine 2)modern Türk devletinin ‘kısaltmaları’ve üstü örtülü sansürlerine takılmadan 3)şöyle gelişigüzel bir bakınca, bu en ‘klasik’Osmanlı yazarının bile, herhangi bir şehri tasvir ederken ve evleri, camileri, havası, suyu ve tuhaf hikayelerinden söz ederken, her seferinde bir şehrin güzel oğlanları -mahbupları- bahsi açtığını görürüz.


 どうも、前半部分の構文読解ができてないようだ。
 「エルヴィヤ・チェレビの『旅行記近代トルコ国家での「短縮版」は
と、ここまでが主節となっているように読めるが、これは明らかに間違いである。


 1) Evliya Çelebi’nin Seyahatname’sine は、bir bakınca に繋がり、「エヴリヤ・チェレビの『旅行記』を・・・ちらっと覗いてみれば」となる。

 ちなみに「エルヴィヤ」はもちろん誤植だろう。正しくは「エヴリヤ」である。


 2)「近代トルコ国家での『短縮版」は、隠れた検閲に引っかかることもなく」

 modern Türk devletinin ‘kısaltmaları’ ve üstü örtülü sansürlerine takılmadan  「近代的なトルコ政府による「省略」と遠まわしな検閲に引っかからずに」

 kısaltmalarıは「短縮版」ではなく、政府による「短縮・省略行為」を意味し、sansürleri「検閲」と対になっているのは誰が見ても明らかである。

 3)「どこかのページを開けてみると」 
 gelişigüzel は「手当たり次第に」という意味なので、「手当たり次第になかを覗いてみれば」となる。




エヴリヤ・チェレビの『旅行記、近代的トルコ政府による「省略」と遠まわしな検閲を免れて手当たり次第に開いてみれば、この最も古典的といわれるオスマン時代の作家でさえ、どこかの町を描写する際、家々やモスク、様々な事象、奇妙なエピソードを語る際、必ずといってその町の美少年(稚児)たちの話を持ち出しているのを目にすることができる。