『イスタンブール』より(2)

五十年の後に、(時々イスタンブール以外の場所で暮らしたけれども)またパムクアパートで、母が抱いてこの世界を初めて見せてくれた、最初の写真の一枚が撮られた場所で暮らしていることが、イスタンブールの別の場所にいるもう一人のオルハンという考えと、二人を結びつけることでなぐさめられたことと関係があるのを知っている。この物語は、自分だけのものであるだけに、イスタンブールを特別なものにしている理由もそこにあることを感じている。つまり、この町には地方から移ってきた人間が多いこと、外から来た人たちの独創性、特異性が特徴的である時代にあっても、いつも同じ場所に、さらには同じ家に住んでいたこと。

 「この物語は、自分だけのものであるだけに、イスタンブールを特別なものにしている理由もそこにある


 この一文の意味がどうにも掴めない。「そこ」とはどこなのか?「この物語が自分だけのものであること」なのか。「この物語が自分だけのものである」とはどういう意味なのか?「ごく個人的なもの」という意味だろうか。
 やはり原文にあたってみるしかない。

Hikayemi bana ve bu yüzden İstanbul’a özel yapan şeyin de bu olduğunu hissediyorum:


 bu olduğunu....: 「このことであると・・・」
 「このこと」とはつまり、コロン(:)以下の部分を指している。
 「物語を私にとって特別なものにし、またそのゆえにイスタンブールにとって特別なものにしているものもこのこと(以下のこと)であると感じている。つまり・・・」とコロン以下の文に繋がってくるのだ。実際、翻訳者もコロン以下の部分を「つまり」と訳している以上、bu(これ)がコロン以下の節を指すことは理解しているに違いないのだが、bu olduğunuを「〜もそこにある」と訳してしまったために、指示される対象が前節、前文中にあるかのように読めてしまうのだ。


しかし、「そこ」が解決したとしても、まだ十分ではない。というのも、コロン以下の節は「イスタンブール特別なものにしている理由」ではなく、Hikayemi... özel yapan şey「私の物語を特別にしているもの/特徴づけているもの」を明らかにしているのだから。



 「物語にとって、そしてイスタンブールにとって特別/特殊にしていること/特徴づけていること」それは、

Göçlerin çokluğu ve göçmenlerin yaratıcılığıyla belirlenmiş bir çağda hep aynı yerde, hatta elli yıl hep aynı evde kalmak.


移住の多さ、移民たちの創造性によって定義される時代にあって、常に同じ場所で、しかも50年間同じ家に住み続けるということ」である。


 「この町には地方から移ってきた人間が多いこと、外から来た人たちの」という訳で表されるように、イスタンブールへの流入人口・移住者の多さをもって「イスタンブールが特別」としているわけでは全くない。

 「私の物語を特別にしているもの/特徴づけているもの」それは、いわゆる「移民の時代」にあって、50年間も同じ都市、同じ通り、同じ家に住み続けているということであり、そこには「自分にとって特別な」経験、記憶、思い出の蓄積がある。そしてこれは同時に、イスタンブールという、古来より多くの人々(旅行者、作家、画家・・・)の行き交うダイナミックな都市にとってみても、特別なことなのだと述べているのである。



五十年経って(その間には、イスタンブール以外の場所で生活したこともあるというのに)私がいまだにパムック・アパートで、母親に抱かれて外の世界をはじめて見せてもらい、初めて写真を撮ってもらった場所で暮らしているということには、イスタンブールのどこか別の場所にいるもう一人のオルハンというアイデアと―この気なぐさみと関係があるのは分かっている。私の話を自分にとって特別なものにし、またそれゆえにイスタンブールにとって特別なものにしているのも、まさにこのことなのだと感じている―つまり、人の移動の激しさと、移民たちの創造性によって定義される時代にあって、常に同じ場所で、しかも五十年も同じ家で暮らすということなのだと。