『イスタンブール』より(1)

İSTANBUL-HATIRALAR VE ŞEH&




 時々、無性にオルハン・パムックの文章に触れたくなることがある。しばらく我慢していたのだが、先日とうとうイスタンブール―記憶と都市(İstanbul-Hatıralar ve Şehir)』を買ってしまった。

 同時に何冊かの本を読み進めながら試訳をしている関係で、もともと本読みのスピードは遅々としたものだが、パムック作品の場合、それに輪をかけて遅らせているのは、翻訳者の卵として、また文芸翻訳家を目指す者として、既訳をいちいち確認せずにはいられない性分のせいである。


 すでにお馴染みになってしまったAmazonの「なか見!検索」サービスを利用して、第1章の最初の5ページにあたる部分の既訳を原文と比較してみた。翻訳者の方にとって四作目にあたる本作品は、『わたしの名は紅』や『雪』に比べると、さすがに誤訳の頻度が減って上達した印象を受けるが、それでも原文と一語一語対応させて見てみると、問題がまったくないわけではない。


 細かい訳語レベルの問題から構文読解レベルの問題まで、以下5箇所について順番に検証していきたい。


多分、勘違いやら、偶然やら、遊びやら、恐怖心から織りなされた長い期間の結果、この考えが自分の中で出来上がったのだろう

Büyük ihtimal, yanlış anlamalar, rastlantılar, oyunlar ve korkularla örülmüş uzun bir süreç sonunda fikir ime işlemişti.


 süreçsüreに似ているが、微妙に意味が異なる。süreが「期間」「間」なのに対し、süreçは「経緯」「プロセス」という意味になる。
 見間違えてしまったのだろうか?


 ime işlemekは、「わたしの心/頭のなかに入り込む」「心/頭のなかにしみ込む/しみ通る」の意である。



おそらくは、勘違いと偶然の一致と悪ふざけと不安から織りなされた長いプロセスの結果として、このアイデア自分のなかに根を下ろしたのだろう


何度かあった両親の諍いと別居のひとつの後で、二人はパリに出かけイスタンブールに残されたわたしと兄は別々にされた。


 「二人はパリに出かけ」では、まるでイスタンブールから一緒に旅立ったように読める。が、この時期、父親はイスタンブールの家を出、パリでホテル住まいをしていたのではなかったか。

 原文はこうなっている。

Annemle babam, kavgalarının ve ayrılıklarının birinin sonunda Paris’te buluşmuşlar, İstanbul’da kalan beni ve ağabeyimi de birbirimizden ayırmışlardı.


 buluşmakは「(一箇所に)集まる」「合流する」「(予定・場所を決めて)会う」「巡り会う」という意味である。
 つまり、Paris’te buluşmuşlar は「パリで落ち合った」「合流した」「出会った」となる。



父と母は、何度となく繰り返した諍いと別居生活のなかで、パリで落ちあったことがあり、イスタンブールに残された私と兄は別々に引き離された。


冬の晩に、イスタンブールの町を歩いているとき、橙色っぽい灯りを見かけ、幸せな人々が気楽な生活をしていると想像して、その内部を覗こうとした家々で、もう一人のオルハンが生きているとの思いが、頭の中を過ぎり、一瞬興奮するのだった


 子供心であるとしても、無邪気に「興奮する」のはオルハン少年の性格にしっくりこない気がする。

 原文を見てみよう。

Kış akşamları İstanbul sokaklarında yürürken, turuncumsu ışığını gördüğüm ve mutlu huzurlu insanların, rahat bir hayat yaşadığını hayal ettiğim ve içlerini görmeye çalıştığım bazı evlerde öteki Orhan’ın yaşadığı, bir an bir ürpertiyle aklımdan geçerdi.


 ürpertiは、おののき、恐怖、寒さなどのために「ぞっとすること」「ぞくぞくすること」「鳥肌が立つこと」「びくびく震えること」とその状態を指し、「興奮」には程遠い。



冬の晩など、イスタンブールの裏通りを歩いている時、橙色がかった家の明かりを目にし、幸福で平和な人たちが安穏とした生活を送っているところを想像し、いくつかは中を覗き込もうとまでしたどこかの家で、もう一人のオルハンが暮らしているという考えが一瞬、脳裏をよぎっては、ぶるっと身震いしたものだ


幸せでないときは、もう一つの家や、もう一つの生活、もう一人のオルハンの暮らしているところに行くことを空想し始める。そうすると、それがもう一人のオルハンであることを少し信じて、その子の幸せを空想して楽しむのだった。この空想は自分をとても幸せにして、ほかの家に行くことは必要なかった。


 「それ」とは誰だろう?「もう一人のオルハンの暮らしているところ」なのだから、そこにいるのは当然「もう一人のオルハン」なわけだが、「それ」=「もう一人のオルハン」とすると重複して奇妙な文になってしまう。

 原文はどうなっているのだろうか。

Mutsuz olduğum zamanlar ise, bir başka eve, bir başka hayata, öteki Orhan’ın yaşadığı yere gideceğimi hayal etmeye başlar, derken o öteki Orhan olduğuma biraz inanır, onun mutluluk hayalleriyle oyalanırdım. Bu düşler beni öyle mutlu ederdi ki, bir başka eve gitmeye gerek kalmazdı.<<←※引用閉じ。なのだが、ここだけなぜか、反映されない。見苦しいが、あしからず。

 
 o öteki Orhan olduğumaとある。つまり、「わたしがその、もう一人のオルハンであることを」になる。どうりで辻褄が合わなかったはずだ。


 またoyalanmakは、「気を紛らす」「暇つぶしをする」「気晴らしをする」「時間稼ぎをする」という意味になる。「楽しむ」という積極的な行為というより、自分で自分を弄び、(心や時間の)空白を埋め、慰めるような補完的な行為と考えたほうがいいだろう。



不幸せな気分になったときは、どこかほかの家、なにか別の生活、もう一人のオルハンの暮らしている場所へ行くところを空想しはじめる。そうするうち、少しばかり自分が、そのもう一人のオルハンになったような気になり、その子の幸せを想像することで気が紛れるのだった。この幻想は私をずいぶん幸せな気分にしてくれたので、ほかの家に行く必要などなかった。