『ハシバミ八』を読む

メティン・カチャン




メティン・カチャン(Metin Kaçan)


1961年、カイセリ県インジェス郡に生まれ、イスタンブールに育つ。
『ミザー』誌に連載した短編でデビュー。やがて、1995年に『重厚小説(Ağır Roman)』が出版されると、これは脚本化され映画となった。
その後、シンナーを吸うストリート・チルドレンたちの生活を描いた『自分の望むところへ向かう者たち』という題名の作品をケマル・アラタン(Kemal Aratan)と共に執筆する。
『重厚小説』の他、『フンドゥック・セキス(Fındık Sekiz:ハシバミ八、1997年)』『ハルマン・カプラン(Harman Kaplan:穫り入れ虎)、2000年』 『Adalara Vapur(諸島へフェリー)、2002年』などの小説、映画、テレビドラマの脚本などを手がける。
兄のハサン・カチャン(Hasan Kaçan)は劇場俳優。


1995年に彼が行ったとされるレイプ疑惑で起訴された後、合わせて9年2ヶ月の有罪判決を受けたカチャンは、8ヶ月の服役後、保釈金を積んで釈放されるが、最高裁によりさらに3年間の懲役判決が下され、2006年、カイセリへの帰省中に再逮捕された。現在カイセリ刑務所で服役中(?)。




メティン・カチャン『ハシバミ八』冒頭部より


 人の耳から耳へと弄ばれていた。文章は、イスティクラル通りのとあるカフェで生まれると、バラットで、ニシャンタシュで、あるいはベベッキかヒサールで、アルナヴットキョイで終わりを迎えた。弄ぶのは、その道ではプロだった。建築家、銀行家、旋盤工、証券取引家、風刺画家、ニヒリスト、未来派、モデル、生ある形と生のない形、影、水蒸気・・・。


 ゲームは愉快だった。腰掛けながら、横たわりながら、あるいは凭れながら、みなが遊んでいた。楽で、疲れなかった。滑稽で、教育的で、神経に障った。神秘的でエキゾチックになるよう誰もが努めていた。ゲームに新たに加わる者は、占い、魔術、サイバネティックス記号論を勉強し、人類誕生の知識に到達するために遊ばれるこの最高のゲームで自分の力を発揮したいと思っていた。


 こんな集団だったから、誰もが互いの下着の染みや、ブランドや、デザインに至るまで熟知していたが、部外者にはよそよそしかった。道徳的崩壊や、社会的害毒や、精神的負傷に付けられた名は、「独立」あるいは「自由」だった。あらゆる概念が逆さまに認識された。意識的変革もそれに該当した。しかし、目の前で持ち上がり、空中でぶつかり合うグラスのおかげで、双子の赤ん坊のように巻かれるタバコのせいで、この水平的な移行に気づく者はいなかった。


 われわれは、帆船で出発する運命まかせの旅人だった。後部に一国を結び付けて。急遽、出航したものの、初めての暴風で帆はずたずたになった。われわれ自身が帆であり、風であり、船だった。メト船長の知っている、唯一、本物の言葉があった。愛。またもや愛だ。


 信心深い者たちの知っている、あの星があるだろう?そう、その星に誓おうじゃないか、愛だと。それも、何百万回も。春の隣にいる愛だと。


 サマルカンドでは黒を纏い、シナイ山では白を身に付け、4つのエレメントを1つにし、意味を持たせ、赤からピンクへと変化しうる、まだ向こうが9のあいだに8になりうる愛だ。この言葉なら船長を救いうる! 


 浅黒い肌のメトは、その心地よい言葉を奴隷の、男の奴隷の耳に囁いた。奴隷は女になったことだろう。脳みその皺のあいだで、つるつるに剃られた心の襞の奥で。引き返しのきかない路を、ずたずたの帆で前進させられていた。夜の場所が明け、風がイルカの群れに音楽を奏でさせるのは、いつだってあの、心の、直感的天秤ばかりの技だった。


 時として、高まり反乱を起こす社会学的潮流が、船の行く手を阻んだ。その時は、漕ぎ手奴隷たちが立ち上がり、美しいモデルたちや鼻の高い役者たちの上に、銀の持ち手のある蛇皮の鞭を振り下ろしたり上げたりしていた。
 (p.11-12)