『雪』より(4)

前回の抜粋箇所の続きから。
いずれも、アナトリア特有の習慣・夫婦関係を色濃く描写した箇所である。

部屋に入ってきたフンダ・エセルも、不必要なほど生んだ子供たちの面倒を見て、夫がどこにいるのかすら知らず、どこかで女中や煙草労働者や絨毯織りや看護婦などをして、僅かな金を稼いでいる彼らの妻たちがいると付け加えた。

Odaya giren Funda Eser de hepsinin evlerinde lüzumundan fazla yaptıklar çoçuklarına bakan ve kocalarının nerede olduğunu bile bilmediği bir yerde hizmetçilik, tütün işçiliği, halıcılık ya da hemşirelik yaparak üç beş kuruş kazanan mutsuz karıları olduğunu söyledi.


「夫がどこにいるのかすら知らず」に違和感を覚える。なぜかといえば、アナトリア的習慣では、夫が今どこにいるのかなど、妻は知らないのが普通だからである。トルコ内陸部〜東部に典型的な保守的な男たちは、いちいち妻に行き先や居場所を教えたりしない。妻の方も、必要もないのに訊いたりはしない。余計なことを訊いたりすれば、罵声を浴びせられるかビンタを食らうのが落ちなのだ。


  kocalarının nerede olduğunu bile 夫がどこにいるのかさえ
  bilmediği bir yerde(妻が)知らないどこかで


ではなく、


  kocalarının 夫が
  nerede olduğunu bile bilmediği bir yerde どこにあるのかも知らない場所で


 ではないだろうか。「知らない」のは妻ではなく夫の方であり、「夫の居場所」ではなく「妻の働いている場所」であろう。この手の夫たちにとっては、妻がどんな場所で働いているかなどどうでもいいのだ。金さえ持って帰ってくれればかまわないのだから。



部屋に入ってきたフンダ・エセルも、そんな奴らにも、家で必要以上に作った子供の面倒を見たり、夫がそれがどこなのかも知らないような場所で、下働きや、タバコ労働者や、絨毯織りや、看護婦などをしながら僅かな金を稼いだりしている不幸な妻がいるのだと言った。


絶えず子供たちに喚きちらし、泣いて生きているこの女たちがいなかったら、アナトリア中に伝染している、全て似たような薄汚れたシャツを着た、髭を剃らない、つまらなそうな、趣味のない、何百万の男たちも、凍てつく夜に凍えて死ぬ乞食や、居酒屋から出て開いていたマンホールに落ちて死んだ酔っ払いや、あるいはまた、パジャマでつっかけを履いて近所までパンを買いに行かされて道に迷った呆け老人のように、いなくなってしまったであろう。

Sürekli çocuklarına bağırarak ve ağlayarak hayata bağlanan bu kadınlar olmasaydı bütün Anadolu’yu sarmış olan ve hepsi birbirine benzeyen bu kirli gömlekli, tıraşsız, neşesiz, işsiz, uğraşsız, milyonlarca erkek buzlu gecelerde köşebaşlarında donup ölen dilenciler, meyhaneden çıkıp açık kanalizasyon çukurna düşüp yok olan sarhoşlar gibi, ya da pijama terlikle bakkala ekmek almaya yollanıp, yolunu kaybeden bunak dedeler gibi kaybolup giderlerdi.


 「アナトリア中に伝染している、全て似たような」のは、薄汚れたシャツではなく、「何百万の男たち」であろう。ちなみにシャツであったとしても「伝染」はおかしいのでは。Sarmakは包み込む、取り囲む、はびこる、のさばる、席巻するなどと訳せるだろう。



ひっきりなしに子供たちを怒鳴りながら、泣きながら生活に縛られているこの女たちがもしいなかったなら、アナトリア中にはびこり、その誰をとって見てもお互いに似通っている、汚れたシャツに無精ひげを生やし、元気もなく、仕事もなく、そのための努力もしない、この何百万人もの男たちといえども、凍てつく夜に通りの角で凍え死んでしまう物乞いや、居酒屋を出たその足で開けっ放しの排水孔に落ちて消えてしまう酔っ払いや、あるいはパジャマ姿につっかけで食料品店(ルビ:バッカル)までパンを買いに行かされて迷子になってしまう呆け老人のように、消えていなくなってしまっていたことだろう。


ところが、"この哀れなカルスの町"で見るように、彼らは多すぎるほどいる。そして彼らの唯一の楽しみは、一生の借りがある、そして愛していることを恥じている妻たちを虐めることだった。

Oysa onlar, “şu zavallı Kars şehrinde”gördüğümüz gibi fazlasıyla kalabalıktılar ve tek sevdikleri şey de hayatlarını borçlu oldukları ve utandıkları bir aşkla sevdikleri karılarına eziyet etmekti.

 今回の抜粋箇所の中で最も日本人に理解しがたいのが、この一文であろう。
 なかでも、utandıkları bir aşkla ここをどう解釈し訳すかが一番の要であると思われる。直訳すれば「(彼らが)恥ずかしがる愛で」「憚る愛で」となる。
 果たして「愛していることを恥じている」のだろうか?


 こういう男たちの愛は異なもので、
  「愛しているのかもしれないが、それを自分では認められないし、面と向かって上手く表現することなど決してできない、不器用な愛情」
  「相手を強く思うあまりに独占欲や嫉妬心が先にたってしまうような、一種の執着」
 なのであり、甘い言葉のかわりに罵倒が、優しい態度のかわりに暴行が、理解のかわりに干渉と抑圧が、男たちにとっては「愛している証拠」であるかのごとく常習化してしまっているのである。



 意訳になるが、以上の意味合いを込めるようなかたちで、このように訳してみた。



ところが奴らときたら、わたしたちが「あの哀れなカルスの町」で見ているように溢れるほどひしめいていて、また奴らが唯一気に入っていることというのも、一生の借りがあり、愛というには憚られるある種の愛着をもって好いている妻を、痛めつけることだった。