『雪』より(1)

彼が間に合ったマギルス商標の古びたバスの助手は、閉めた荷物入れをもう一度開けたくなかったので、「時間がないから」と言った。そのために今、両脚の間に置いている臙脂色のバリイ商標の鞄を預けずに手元に置いたのだった。窓側に座っているこの乗客は五年前にフランクフルトのデパートで買った灰色の厚い外套を着ていた。カルスでこれから過ごす日々で、この柔らかい美しい毛の外套は彼自身にとって気恥ずかしいものでもあり、心の平静を乱すものでもあり、また頼りにもなるだろうと、今から申し上げておこう。
バスが発車するとすぐ、窓際に座っていた乗客が「もしかしたら何か新しいものを見るかも知れない」と目をしっかり開けて、エルズルムの町外れや、小さな貧しい食料品店や、パン屋や、貧相な茶屋の中を見ていると、雪がちらつき始めた。

Amazonなか見!検索」より参照―

Yetiştiği Magirus marka eski otobüsün muavini, kapattığı bagajı yeniden açmak istemediği için “Acelemiz var,”demişti.Bu yüzden şimdi bacaklarının arasında duran koyu vişne rengi Bally marka büyük el çantasını yanına almıştı. Pencere kenarında oturan yolcunun üzerinde beş yıl önce Frankfurt’ta bir Kaufhof’tan aldığı kül rengi kalın bir palto vardı. Kars’ta geçireceği günlerde bu yumuşacık tüylu, güzel paltonun kendisi için hem utanç ve huzursuzluk, hem de güven kaynağı olacağını şimdiden söyleyelim.
Otobüs yola çıktıktan hemen sonra, cam kenarında oturan yolcu “belki yeni bir şey görürüm” diye gözlerini dort açıp Erzurum’un kenar mahallelerini, küçücük ve yoksul bakkal dükkanlarını, fırınları, kırık dörük kahvehanelerin içlerini seylederken kar serpiştirmeye başlamıştı.

 『雪』はまるで、映画の脚本といってもよいほど映像的なリアリティに溢れた作品である。パムックは常々、小道具を重視している感があって、あたかも写真家や映画監督が、ファインダーの中に写りこむ小道具の分量、その位置、形、大きさ、色合いに始まり製品のブランドに至るまで細かく指定していくように、時に煩いほど細かく具体的に描写する癖がある。これは、かつて画家志望であったという絵描きの「眼」がそうさせているとも考えられるし、映画好きだと自ら語り、映画『隠された顔』の脚本を書いた経験や『雪』の映画化の計画などから推測できるように、映像的描写をつねづね意識しているためとも考えられる。


 この第1章でパムックの描く風景のひとコマひとコマはきわめて鮮烈であって、映画のプロローグのように、背景と主人公を短時間ですばやく印象づけることに成功している。少なくとも原文を読む者の脳裏には、その映像がいきいきと再現されているはずである。したがって、これを訳すにあたっても、原文同様の鮮やかな映像的イメージを喚起するものとなるよう細心の注意を払いたいものである。
 しかも『雪』は現代小説、同時代小説である。したがって、訳語の選択にあたっても、なるべく現代の日本で一般的に通用している、ないし通用しそうな言葉、表現を採用するべきだと思う。あたかも昭和初期に引き戻されるかのような、ましてや時代劇を髣髴とさせるようなレトロな言葉遣いは、極力避けるべきだろう。


 例えば、この一節のなかに、二箇所も「商標」という言葉が登場する。単独ではなく「○○商標」というかたちで。markaとは、確かに商標、ブランドのことだが、現代の日本で「○○商標」という表現がどれだけ使われているものであろうか。

 「マギルス」とは、イヴェコ(İVECO) *1 の一部製品に付けられている商標である。バスに例えれば、メルセデス、三菱、いすずと考えればよい。しかし、日本では、車の表現として「三菱製」とは言うが、「三菱商標」とは言わないはずである。「マギルス」は(現在は)会社名ではないので「マギルス製」とは言いがたいが、メルセデストヨタと違って日本の方には咄嗟に車の商標名だと読み取ってもらうのは難しいだろう。「マギルス・マーク」程度にとどめるのがいいかと思われる。
 一方「バリイ」とは言うまでもなく、スイスの老舗皮革製品ブランド「バリー」のことである。日本では「バリー」で通用しているほか、OEM生産品であったとしても習慣的に「バリー製」と呼ぶ。「バリー」だけでも通用すると思うが、「ヴィトン」「グッチ」「プラダ」等に比べると、日本での知名度は落ちるかもしれない。いずれにせよ、「ヴィトン」を「ヴィトン製」とは言っても「ヴィトン商標」とは言わないのと同様、「バリー商標」とは言わないはずである。


 そして問題は、Kaが身につけているコートの描写である。

 まず、原文ではフランクフルトの「カウフホフ」デパートと明記してあるにもかかわらず、訳文には反映されていない。日本の読者には分からなかろうと割愛したのだろう。だが、ここはもちろん割愛するべきではなかったと思う。ドイツ各地に支店を持つ大型デパート「カウフホフ」の名は、ドイツ駐在経験や旅行経験のある日本の方には、懐かしい名前として思い出されるのではなかろうか。日本の小説に「三越百貨店」とあれば、その名は訳書にもきちんと反映してもらいたいのと理由は同じである。

 そして「毛の外套」のくだり。「毛の」とくれば、「ウール」の昔風の言い方だと思うが、原文は「ウールの」yünlüではないのだ。tüylu「羽毛の」つまりコートでいえば「ダウン」になる。しかもyumuşacık tüyluとあるので、「(ふわふわと)柔らかい羽毛の入った」まさに「ダウンコート」そのものである。「外套」は問題外だろう。「外套」と聞けば、わたしの脳裏には膝丈まであるクラシックな形で厚地のもっさりしたオーバーコートが浮かんでくる。が、もちろんKaが身につけている物は、そんなものではありえない。詩人であり、芸術家の常として、身につけるものひとつひとつにもこだわりがあり、かつそれはドイツ仕込みであるはずだ。それは「バリーの鞄」からも分かる。büyük el çantası大きな手提げ鞄とあるのは、ボストンバッグのようなものだろう。数日間の小旅行を予定した身支度に丁度いい大きさのボストンバッグだが、バリー製なら優に10万円はするだろう。すべすべと滑らかな天然レザーの風合いにボルドー・カラー。そんなバリーのボストンバッグを持つ男なら、お尻が隠れるくらいの丈の、もこもこと膨らんだ厚手のダウンコートを着ていてもおかしくない。どこから見ても、貧しいトルコ東部には縁のなさそうな、ヨーロッパからの、あるいはヨーロッパ帰りの人間を匂わせる。


 最後に、「茶屋」にもひとこと。発想が貧困で申し訳ないが、私の場合、どうしても「峠の茶屋」的イメージから抜け出せない。茅葺き屋根に暖簾、縁台に座って頬ばる草餅やみたらし団子・・・という映像が浮かんでくるのだ。だが、トルコのカフヴェハーネは、直訳すれば「珈琲店」だが、日本語のコーヒーショップとも、もちろん茶屋ともまったく別の世界に属す。ここは男たちの社交と談話の場であり、チャイやコーヒーを飲みながらバックギャモンやオーケーなどのゲームをする遊興場でもある。仕事のない男たちは、日がな一日カフヴェハーネにたむろして、政治談議に花を咲かせたり、情報交換したりする。チャイハネとも言うが、「喫茶店」ではありえない。したがって、トルコ語の「カフヴェハーネ」をそのまま採用し、訳注を添えるのが望ましいと思う。



 というわけで、このように訳してみた。


 男が間に合ったマギルス・マークの古ぼけたバスの助手は、いったん閉めたトランクを開けたくないばかりに「時間がないんで」と言った。今、両脚のあいだに置かれているボルドー色をしたバリー製の大きな手提げ鞄を、仕方なくバスの中に持ち込んだのはそのせいだった。窓側の席に座ったこの乗客は、5年前にフランクフルトのカウフホフ・デパートのうちの一軒で購入した灰色の厚手のダウンコートを身につけていた。カルスで過ごすことになる数日のあいだ、この柔らかな羽毛製のお洒落なコートが、男にとって羞恥と居心地の悪さの原因になると同時に、心の拠りどころにもなることを、今のうちに指摘しておくとしよう。
 バスが出発するや、窓側の席の乗客が「何か新しいものを見かけるかもしれない」と眼を一杯に見開き、エルズルムの周辺地区を、小さくてみすぼらしい食料品店やパン屋を、ボロボロに崩れかかったカフヴェハーネの中を見つめているとき、ちらほらと雪が降りだした。 

*1:イタリア、トリノを本拠地とするフィアット傘下にあるトラック、バス、消防車、ディーゼル・エンジンなどの製造会社