アーンティ・ネリー/オスマン人に嫁いだあるイギリス女性の半生(17)


§帰還


 イスタンブールに着きました。はやる心にもかかわらず、座り続けた私の身体はコンクリートのように重く身動きがとれませんでした。車椅子が必要かときかれて断固否定した私ですが、スチュワーデスの手助けなしには、タラップを降りることさえままなりませんでした。空港にはレイラとその息子イスマイル、娘アイシェが出迎えてくれました。イスマイルは医師の卵、アイシェは大学生になっていました。
 レイラの新しいオスマンベイの家では、ベルクスと、ニハルの娘トゥルンが出迎えてくれました。ニハルの子供たちトゥルンとアルプは、学校の都合で、レイラの家から程近いベルクスの家に泊まっているのです。


 1949年の夏頃、トゥルンを迎えにゲリボルからやってきたニハルは、ゲリボルの軍人用官舎の一角にある海沿いの家に来るよう誘ってくれました。一階建てで、そこなら楽に外を出歩けるからと。ニハルの家は崖の上で海に面していたので、私に用意された部屋からも海を眺めることができました。訪問者が途切れることはなく、私たちは毎日を活動的に過ごしました。
 そんなある日、ニハルの夫ファフリ・パシャが、私たちをチャナッカレ戦争の舞台となった場所に、特にイギリス人戦没者の墓地に連れて行ってくれることになりました。最初にトルコ人戦没者の墓地に立ち寄り、チャナッカレ戦争で亡くなったファフリ・パシャの兄タフシン氏の墓参りをしてから、イギリス人墓地に到着しました。
 看守に案内されて弟トミーの墓までやってきました。墓の上には金属製のプレートが嵌め込まれ、「帝国海軍少尉トーマス・ベンドン」と書いてありました。まだ幼い頃に別れた弟のために祈りを捧げて墓参りから戻ると、まるで巡礼から戻った巡礼者のように心が晴れ晴れとしていました。


 その頃のファフリ・パシャには、随分と心配事があるように見受けられました。エルズルムの軍司令本部長をしていた昨年8月のこと、陸軍大将への昇進が見送られ、ゲリボル駐屯地の司令官に左遷されたため、一時は辞職すら考えたそうです。私の理解した限りでは、何らかの問題があってイスメット・イノョニュとの関係が悪化したということでした。
 1949年も8月が過ぎ、ファフル・パシャの昇進はまたしても叶いませんでした。その頃、視察の途中で乗っていたジープが横転し、腕から肩にかけての骨を折ったファフリ・パシャは、それを口実にして長い休暇を申請し、全員一緒にイスタンブールに戻ってきました。ベルクスの家に逗留しているファフリ・パシャのもとを、軍を辞職し党に入るようにと、民主党員が何度も訪れてきました。選挙を目前に民主党から立候補したファフリ・パシャは、1950年5月14日の選挙で当選し、議会入りを果たすと、第一次アドナン・メンデレス内閣の公共事業大臣に任命されました。


 ゲリボルから戻った私を一番喜ばせたのは、ニーメットがイスタンブールに来るという知らせでした。すぐにレイラの家に近く、1階にあって階段も数段しかない家を探し出して調度を整えました。最初は仕事探しに苦労したニーメットも、やがてブリティッシュ・ペトロール(BP)に職を見つけて働き出すと、私たちに久しぶりに平安な暮らしが戻ってきました。
 1951年の春のある日、ベルクス甲状腺の手術のためスイスに発つ前に挨拶にやってきました。彼女はまるで死を覚悟したかのように「無事に戻らなかったら、遺産はトゥルンに」と言い残していきました。彼女には子供がなく、トゥルンを自分の娘のように可愛がっていたのです。そして、残念なことにそれは現実となりました。麻酔薬に心臓が耐えられなかったのです。


 ニーメットは、以前にもまして私から離れなくなりました。まるで母親のように私に接し、私もまた子供のように世話になりました。身体を動かすのが辛いので、身体を洗ったり、服を着たり、髪の毛をとかしたりするのに、ニーメットの助けなしにはできませんでした。経済的なことと、私の身体の痛み、目の不調等を除けば、私たちは平穏な日常を過ごしていました。
 ところが、民主党不振の上に独裁体制が敷かれたことが、私たちを不安にさせました。若者や大学生たちが頻繁にデモ行進を繰り返し、逮捕者も続出していました。そしてとうとう、1960年の5月27日朝、ラジオから行進曲の調べにのってクーデターのニュースが流れてきました。


 1962年には、イタリアに住むキャーミルが心臓麻痺で死んだという知らせを受け、大きなショックを受けました。それ以来わたしは、内に籠りがちの、周囲に関心を示さないただの年寄り女になってしまいました。年をとるほどに目も弱り、外出さえしたくなくなりました。
 ある日ニーメットは、私をソファーの上に座らせ、サイドテーブルの上に水と薬を置いて出かけました。目の具合が悪くしきりに涙が出るので、ハンカチを取ろうと手探りで探そうとしたところ、誤ってサイドテーブルが滑って転んでしまったようです。ニーメットが戻ったとき私は血のなかで倒れていたそうで、運ばれた病院で私は目を覚ましました。
 入院している間、私はしきりに考え事をしていました。とうに90歳を越え、いつ死んでもおかしくありませんでした。死んだ後、私はどこに埋葬されるのでしょう?プロテスタントの墓?いいえ、私は死んだ夫に約束したのです。あなたの横に参りますと。夫の夢をしきりに見るようにもなっていました。以前から考えていたように、一刻も早くムスリムになる必要がありました。
 私の具合が悪いと聞いて駆けつけてきたニハルに、一刻も早くムスリムになりたいという希望を告げました。ニハルはまず、信仰告白の言葉を完全に暗記するまで私に何度も暗誦させました。その後しばらくして僧侶を連れてきました。名前を聞かれてニリュフェルと答え、祈りの言葉を唱えて終わりました。あとは書類の記録作業だけが残っていました。
 ニハルからの報告を待ちましたが、いっこうに連絡はありませんでした。様子を確かめる私に悪い知らせが届きました。ニハルが私のところから帰ってまもなく、心臓麻痺で亡くなっていたというのです。私にショックを与えまいと、黙っていたのでした。ニハルのやり残した仕事はレイラの娘アイシェが引き継いでくれることになりました。


 それからどれほどの時が過ぎたのか、私にはもはや分からなくなっていました。少しずつ死に近づいていたのです。身体はいつでも氷のように冷え切っていました。私は知っている限りの祈りの言葉を唱えました。目の前の何もかもが消えてなくなると、私を静寂と温もりが包み込みました。メフメット・アリが目の前を横切りました。彼に追いついた私を彼が包み込むと、自分の身が軽くなり、幸福感に溢れるのを感じました。


                         * * *


 1878年、イギリスはカーディフに生まれたベンドン一家の娘エレアノール・ルイザ・ゲレデ、通称ネリー。そして家族全員の「アーンティ(おばさま)」。
 自らの意思によりイスラム教徒ニリュフェル・ゲレデとして、1975年のある暑い夏の日、ズィンジルリクユ墓地の愛する夫メフメット・アリ・ゲレデの墓の横に埋葬された。
 ここに辿り着くため、1897年、若くしてカーディフを離れ、そしてこれが78年にわたる長い旅路の最後になった。
人生の闘いは終わった。いまは安らかに眠らんことを。■