『千の憂鬱、一の愉悦』を読む

Bin Hüzünlü Haz




 この数ヶ月、オルハン・パムックに代わる作家を探しあぐねてきた。 どうせならトルコ文学史上重要な位置づけにある作家・作品をと気負う一方で、なにより翻訳の愉楽を見出すことのできる作品でなければ手を出すべきではないことは、私自身が一番よく分かっていた。 一章に一語でいい、暗い海の底で高貴な絹色の輝きを放つ真珠のように、心の奥底に丸く柔らかな光の粒を育むような表現に出会えるのなら―パムックの『雪』のように―最終章への道程は辛いながらも楽しく甲斐あるものになる。 生来の飽きっぽい性格が災いして、翻訳という根気と熱意によって支えられる職人仕事を途中で何度となく放棄しそうになる私のような者でも、最終章までどうにか訳し通すことができるかもしれないのだが・・・。 大海原を前に、自分の目指すべき無人島がいったいどの方角にあるのか、どれくらいの距離があるのか、なによりどんな島なのか見当すらつかず、舟を漕ぎ出してみては沖合いに出る前に浜に引き上げるという状態が続いた。

 まずはヤシャル・ケマルから始めてみた。その雄大で豊かな自然表現は魅力的だった。しかしアダナ地方特有の農民ことばを相応しい日本の方言に訳しおおせる自信はなかった。短編二編で手を引いた。
 オルハン・ケマルを手に取った。訳し始めて最初の5行で断念した。ただ世代の違い、生きた時代の違いを感じざるをえなかった。
 エリフ・シャファックにも手を伸ばした。同じく最初の10行で嫌気が差した。フェミニズムには馴染めそうもないし、章のタイトルに「シナモン」なんて付ける甘ったるさは性に合わない。
 アフメット・アルタンやアイシェ・クリン、トゥナ・キレミッチのような流行作家には、端から興味が沸かなかった。 荒削りでも歯ごたえと個性的な味わいがあり、時代色や地域色が薄く、言葉に、文章に力の溢れた作家はいないものだろうか?

 
 こうして遠く水平線の向こうを眺めながら、浜辺で悶々と行きつ戻りつしていた時、肩を叩く人があった。 自身が訪れたことのある島の名のいくつかを快く教えてくださったのだ。 そのうちのひとつには私も聞き覚えがあった。それが、現在2冊を同時進行で読み進めている、ハサン・アリ・トプタシュ(Hasan Ali Toptaş)である。
 オルハン・パムック作品に漂う芳しい香気、散りばめられた真珠の輝きはないが、トプタシュの作品は、思いがけない言葉同士を芸術的な感性によって緻密に織り込んだ幻惑的な綾織りとでもいえる。 綿密に織り込まれた銀糸がときおり妖しく煌き、ぞくっとするような存在感を醸し出している。 しかもトプタシュ作品は、読むよりも翻訳する方が何倍も愉しい。 まるで悪戯の共犯者になっているような具合なのだ。 悪のりは慎むとしても、首謀者の意図する仕掛けを忠実に再現しようと悪知恵を働かせるのは愉快このうえない。



 トプタシュのプロフィールやトルコ文学内での位置付けなどは後日まとめることとして、まずは作品をお目にかけようと思う。 読んでくださる方には、ぜひ忌憚のない意見をお聞きしたいと思う。

 ずばり、トプタシュは日本で受け入れられるでしょうか?(コメント欄にお願い申し上げます)




ハサン・アリ・トプタシュ『千の憂鬱、一の愉悦(千の憂鬱なる愉悦)』*1 冒頭部より


 俺をなにより苛立たせるのは、罪を浄化されてしまっているという感覚だ。 もう長いこと、魂の奥の方で強烈にそれを感じてきた。 ときおり、そんな風にどっぷりと汚れにまみれた挙句、自分がいったい何者なのか理解しようと、その町のアルコール臭漂う暗闇に臆することなく飛び込み、どの街角でペテン師を見つけようと、どの裏通りでごろつきを見かけようと、またどこで酔っ払いに出喰わそうとたちまち仲間になり、それからそいつらと連れ立って人生の触手の伸びなかった地点に向かって歩きながら、しばしば醜悪という名で呼ばれる物事の中を泳ぎまわり、色とりどりの光で飾られた泥海の中を浮き沈みしつつ、賭博場やキャバレーのVIP席に長居したうえに何年も居座り、そうしてこういう諸々の事柄が起こっている間に、地球上で人間の犯すことのできる罪がどれだけあろうと、一つ残らず巨大な磁石のごとき俺という存在に引き寄せてしまいたいのだが、どうにも成功したためしがない。 なぜというなら、俺が大いなる情熱を注いで付けまわしているキツネ顔のペテン師どもも、出目顔の酔っ払いどもも、あるいは優柔不断な風のごとく俺をあっちこっちと引き摺り回すしゃくれ顎のごろつきどもも、いかなる罪の敷居に近づこうと、一瞬にして天使に姿を変えるのだから・・・。その後はというと、罪を渇望する俺の魂のまわりに、俺という存在に影響を及ぼすその真っ暗な存在と、ワインのような赤目や、ゼリーのようにプルプル震え続ける顔や、互い違いに絡み合う手や腕の動きや、一語一語が一文の重さほどの言葉によって、乗り越えるのが難しい上にも難しいバリケードを作り上げてしまうのだ。 こうして、やつらが天使に姿を変えたところを追い越したところで、いっこうに俺は罪に辿り着くことができないということになる。 そのうえ、一方では罪に届かなかった不足した魂の重みの下で貧乏ネズミのように押しつぶされながら、もう一方では見たこともない天使の羽のパタパタいう羽音の合間で次第に窒息するかのような感覚に襲われてひどく狼狽する始末だ。 例えるなら、俺の心のなかの一角からほかの一角へと、気違いのようにあたふたと駆けまわり、跳びまわるのだ、自分自身に対峙して自分自身を虐めることができるだろうかと。 撒き散らされるのだ、細かい粉が、塗りたくられるのだ。 心を歯に嵌めて立ち上がり、そしてまたも、もう一度、もんどりうって倒れるのだ。 その度に、倒れながらまるで子供になるのだ。 ちっちゃい両手を地面につき立ち上がる時には、信じられないような形で、あっというまに大きくなるのだ。 それから、手や顔の上を線を描きながら通り過ぎる赤いガラス瓶のキラキラした輝きに跳び掴まり執念で前に、天使どもの会話の合間に垣間見える罪の魅力に一目散に襲いかかるのだが、またしても俺の両手は空っぽのまま・・・。まるで、くすねたいと思った品物の表面で旋回する音もなく訳も分からぬなんらかの力が、何ひとつ感じさせぬまま俺の両手を掴まえてやさしく押し戻したり、来る日も来る日も殺すことばかり考えた人間が、予想だにしなかったような理由で奇妙なかたちで不死身化したり、人気のない裏通りの片隅で抜いたナイフが空中で血に飢えた金属製の言語のようにピカリピカリと光を放って止む間に、一瞬にして姿を消したり、あるいはミリメートル級の計算と細心の注意をもって方角を定めた刀身が、標的に向かって次々と、標的の生命力を増幅させる深い静寂を吐きつけたりするのだから、俺は何ごとが起こったかと驚いてしまう。 誰も彼もが喉元まで罪に埋まり、大道に飛び出す客引きまでが新しいものを見つけたかのように人差し指を時の鼻先に押し付けて、「罪の時代!罪の時代!」と金切り声を上げ続ける世界では、こんなことはどれも至極当たり前のことでもあるらしく、俺のまわりでどんちゃん騒ぎをしている天使どもも、俺が驚いてしまったことにその段になってびくりと驚いてしまうのだ。目ん玉をひん剥いて
(p.9-10)

*1:原題は[Bin Hüzünlü Haz]で、『千の憂鬱な愉悦』とでも訳せるが、ここでは題名として少々意訳してある。トプタシュは頭韻、脚韻、熟語、繰り返しを好んで用いるので、ここでもノリを合わせてみた。