"Masumiyet Müzesi"を読む(3)

 現在、158ページ。

 本作品は、ノーベル賞受賞後にはじめて発表された長編小説であり、世界中の読者から待望された新作になるわけだが、ひょっとしてこれは“失敗作”に当たるのではないか、という危惧を抱きつつ読み進めている。
 あくまでここまでの印象だが、技巧的には、前作の『雪』を超えるものではなく(構造的には『雪』を踏襲したもの、といえるだろう)、しかも『雪』が全編を通じ、貧しさや極限的状況のなかに見出せる神性、聖なるものを暗示させる美しい表現に満ちていたのと対照的に、本作品は頁が進むごとに、豊かさ、上品さ、幸福な外見のなかに宿る俗性、俗物性が鼻につきだすような―パムック自身が確信犯的に狙ったものであろうが―、そんな作品になっていると同時に、パムックお得意の饒舌なまでのディティール描写が常に同じトーンで容赦なく繰り返される―とりわけ性的描写や人物描写に顕著なのだが、風景として決して美しいとは思えぬ、むしろ陳腐とも思える描写が執拗に繰り返される―せいで、正直、マンネリで少々ウンザリ、と言いたくもなってくる長尺ぶりなのだ。
 

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 さて、気を取り直して・・・
 前回触れたように、パムックは、70〜80年代当時のトルコにおいて、若い娘が恋人と”sonuna kadar gitmek”=「最後まで行く」こと、あるいは男が娘を”sahip olmak”=「自分のものにする」(「手込めにする」つまり「無理やり犯す、強姦する」の意味で使われることもある)ことの意味を、登場人物の言葉を借りて「社会人類学的」に説明しようとしている。



 「第15章 若干の厭わしい人類学的真実」より

 「自分のものにする」という表現を用いたからには、私の物語のベースを成し、一部の読者と一部の博物館の来訪者にはもとよりよく知られたこのテーマに、いまいちど戻ることとしよう。とりわけ何世代も後の人たち、たとえば2100年以降の博物館の来訪者がこのテーマを理解するには困難を強いられるだろうと予想しつつ、「人類学的」と称される類の若干の不愉快な―昔の人は、厭わしいといった―知識を、再度、怖れることなく今ここで提供しなければなるまい。

 西暦紀元後1975年においても、イスタンブールがその中心となるバルカン諸国、中東および南西地中海沿岸諸国において、若い娘の「純潔」は、結婚するまで守られねばならない貴重な宝であることに変わりがなかった。西洋化、近代化といわれる過程と、さらには都市化の結果、若い娘たちが次第に晩婚化していったことで、イスタンブールの一部の地区では、この宝の実際の価値が少しずつ下がり始めたのである。西洋化支持派は、文明化と並び称す近代化の結果、この道徳が、さらにはこの話題そのものが忘れ去られていくだろうと楽観的に信じていた。ところが当時、イスタンブールでもっとも西洋化した裕福な層においてさえ、若い娘が結婚前に別の男と「最後まで」行き、性交渉を持つということには、いくつかの重大な意味合いと結論とが見出せた。

 a) 引き出せるもっとも軽い結論としては、私が物語のなかで語ったように、若いカップルがともかくも結婚をすでに決意していることにある。西洋化した裕福層同士で婚約した、あるいは「結婚を前提とした交際」を周囲に公認させた「真剣な」カップルが結婚前に性交渉をもつことは、スィベルと私の場合同様、まれにではあれ大目に見られていた。未来の花婿候補と結婚前に寝るような、上流階級に属し教養を身につけた娘たちは、自分たちの行動を、相手に感じている信頼ゆえというよりも、風習など歯牙にもかけないほど現代的で自由であるがゆえだと説明したがったものである。

 b) このような信用が確立していず、「交際」がまだ公認されていない場合には、男側からの強要、愛情の高まり、アルコール、愚かさ、度を越した勇気など広範な理由によって若い娘が自分を「抑えきれず」処女を捧げたならば、名誉の概念に伝統的な意味で結びついている必要のある男というものは、娘の尊厳を守るために彼女と結婚しなければならなかった。若い頃の私の友人メフメットの弟アフメットは、今ではすっかり幸せな夫婦となっている妻のセヴダと、このような過ちの結果、後悔を怖れつつ結婚したのだった。

 c) 男が逃げて娘と結婚しなかった場合、かつ娘が18歳未満であった場合、怒り狂った父親が娘を女たらしの男と結婚させようと裁判所に訴えることもあった。このような裁判は、時々メディアの注目の的になり、その際、新聞各紙が「誘惑された」といって掲載する娘の写真は、目のところが―このような恥ずべき状況で、本人と特定されないよう―黒い太線で隠されるのが常だった。同様の黒いテープは、警察の強制捜査によって捕まった売春婦や、姦通を働いたり辱めを受けた女性の新聞掲載写真にも使われていたため、その当時トルコで新聞を読むということは、目をテープで覆われた女性の写真ばかり集められた仮面舞踏会のなかを徘徊するようなものであった。なにしろ、「軽い」と見なされている歌手や芸人、美人コンテストの参加者以外に、目をテープで覆われていないトルコ女性の写真は新聞にはほとんど掲載されなかったし、広告でもムスリムでない外人女性や外人の顔が好んで用いられていたのである。
 (p.72〜74)


 (d)以下、(4)につづく。