"Masumiyet Müzesi"を読む(2)

 只今、84ページ。


 “恋愛小説“と名乗るには、あまりに不思議な恋愛小説である。パムックの技巧にかかると、ロマンティズムの片鱗もない恋愛小説(ロマンス)が出来上がるようだ。

 男女の出会い(再会)から急速な恋愛に進展、泥沼化、やがて訪れる破局(悲劇?)、そして残された者による回想・・・いわば定番の起承転結を備えているにもかかわらず、この調子でさらに500ページも続くかと思うと、少々先が思いやられる滑り出しなのだ。

 男の回想という型式をとっているためだろう。始終、男の視点から、それも今どきの言い方でヘタレぎみな30男の視点から繰り返し語られる、性の絶頂への賛美。それを「人生で最も幸せな瞬間」と言い切る“無邪気さ”。女への思慕は、女の美しさ、とりわけベッドの上で見せた美しさに直結したものだ。そして女との思い出の品を、まるで子供が拾った貝殻や石ころを大事にするかのように、レストランの紙ナプキンに至るまでひとつひとつコレクションしていく“子供っぽい純真さ“。*1そんな風にして、ともすれば女性、とりわけフェミニストサイドから物言いがつきかねない描写・発言が繰り返される。

 しかし、当惑、嫉妬、ためらい、悦び・・・さながら実験動物の行動と反応を観察するかのように、男の性と内面の動揺を詳細に丹念に描写していく筆致は、いかにもパムックらしい。エロティックであるべき場面でさえ、エロティシズムとは無縁なディティールの連続として描かれている。

 また、1970〜80年代当時の、特にイスタンブールブルジョア階級の社会・文化・経済的状況と、男女間の関係、性道徳、とりわけ処女性に関する、登場人物の言葉を借りたパムック自身の「社会人類学的考察」はなかなかに興味深い。

 
 以下に、注意を惹いた箇所を紹介してみたい。

 ―ケマルが母親に、フュスンと出合ったことを話したとき

「ああ、そうそう。あのシェナイのお店で働いているんだったわね、ネスィベの娘は。哀れなこと!」と母は言った。「バイラムにだって、あの人たちはもう顔を出しやしない。あの美人コンテストが悪かったのよ。毎日、店の前を通りがかるのだけれど、可哀相な娘に声をかけるなんて、思い浮かびもしないし、その気にもなれないわ」
 (中略)
 「ネスィベったら、ご主人に内緒で娘の歳をごまかし、あのコンテストに参加させたのよ。」母は、その一件を思い出すにつれ、いっそう腹を立てて言った。「幸いなことに落選したから、恥を晒さないですんだけれど。(中略)この国で、美人コンテストに参加する娘たちが、どんな娘たちなのか、どんな女たちなのか、誰でも知っているわ・・・」
 母は、フュスンが男たちと寝るようになったことを、匂わせていた
 (p.16〜18)


 ―事務所で婚約者スィベルと愛し合うことについて

いかに現代的で、ヨーロッパ仕込みの女性の権利だのフェミニスト風の言葉をいかに用いようと、「秘書」についての考えはというと、母親のそれと変わらないスィベルは、「ここで愛し合うのはよしましょうよ。自分がまるで秘書にでもなったかのように感じるの!」と時々訴えたものだ。しかし、事務所のレザーソファーの上で愛し合う際に彼女のなかに感じた臆病さの本当の理由は、もちろん、あの時代にトルコの娘たちが結婚前に性交渉を持つことへの怖れであった。
 (p.19)

*1:このような男の単純さ、純真さ、無邪気さ、幼稚さを[Masumiyet]という言葉で表現しているとも言えるだろう。