重訳はどこまで原文を伝えうるか?(1)

 作品選びの過程で、一時ヒッタイトを舞台とした作品(ドイツ語原著のトルコ語訳)の下訳に取り掛かったことを書いた。時代は、かの有名なカデシュの戦いの20年後、紀元前1265年。ヒッタイト大王ハットゥシリ3世の治世である。


 歴史小説を訳すにあたり、自分にとって訳語の選択が最も難しいと感じられるのが、官職名、敬称、人称代名詞、会話表現である。オスマン時代でも十分難しいというのに、紀元前13世紀ともなれば、いったいどこに範を取ればいいのか。
 そこで、ちょうどカデシュの戦いの時代を背景とし、ヒッタイトの敵方に当たる古代エジプトを舞台に、大王(ファラオ)が主人公となる小説に狙いを定めた。『太陽の王ラムセス』*1である。Amazonのコレクター商品のなかから全5巻をセットで取り寄せると同時に、5巻のうちカデシュの戦いの前後に相当し、ハットゥシリ3世が登場すると思われる3巻目、4巻目のトルコ語*2を購入した。邦訳とトルコ語訳の両者を対訳形式で読み進めることで、訳語・表現の参考にしようと目論んだのである。
 なお原著はフランス語であり、邦訳、トルコ語訳いずれも、フランス語からの直の翻訳になる。


 そして、両者を対比させていくうち、当然のことながら、各所で原文解釈や訳語表現に食い違いが出ていることが明らかになった。同じ日本語を母語とする日本人であっても、翻訳者によって解釈や表現は異なってくるものだ。まったく別の言語文化を有する日本人とトルコ人では、バイアスのかかり方もずっと異なってくるのは当たり前である。つまり、もし重訳ということになれば、トルコ人翻訳者のバイアスの上に、さらに日本語翻訳者(ここでは私)のバイアスがかかり、伝言ゲームにも似た、滑稽なズレが生じてきはしまいか?
 トルコ語翻訳者の技量そのものへの不信感もあって、重訳が陥りがちな危険性にあらためて気づいた私は、対訳の試みもそこそこに、重訳にならざるをえないヒッタイト小説の翻訳そのものを断念してしまったのだった。


 この重訳というものが、原著からの直接の和訳とどれほど違うのか、あるいは違わないのか、ここをご覧になっている方々にも比較してご判断いただければと思う。
 次回は、『太陽の王ラムセス』における、重訳と直接翻訳という二種の訳文を対比させ、両者間の相違を検証してみたい。

*1:クリスチャン・ジャック著。第1巻:鳥取絹子訳、第2〜5巻:山田浩之訳。青山出版社刊。

*2:[RAMSES/Kadeş Savaşı][RAMSES/Ebu Simbel’in Kraliçesi] Remzi Kitabevi