『雪』より―雪をめぐる断章【5】

cesur_civciv2007-12-27







 師走もとことん押しつまった。 本年最後の案件も、昨日、無事納品。 「ほそぼそ」ながら翻訳者としてスタートを切ることができ、少しずつながら受注量も増え、ほぼ満足のいく一年となった。 来年以降、もう少し大きな案件を手掛けることができるよう、弛まず努力を続けていきたい。


 さて、と地上に顔を出したモグラの気分になって辺りを見渡してみれば、トルコの最寒地、東部エルズルムやカルスでは、朝晩の気温はすでにマイナス20℃にまで下がっていた。 私の脳裏に自然と、パムックの描く雪の世界が蘇る。 飽きもせず雪の描写だけを読み返してはぞくっと身震いし、言葉の連なりが生み出す宗教的とも哲学的ともつかぬ心地よい余韻につかのま陶酔する。 『雪』は文句なしに、“雪文学“の傑作中の傑作ではないだろうか。


 そこで、3月を最後にそれっきりになっていた「『雪』より―雪をめぐる断章」のシリーズを、今日からしばらくの間、再開しようと思う。 春の訪れまでに、何度更新できるか分からぬが、気長に続けていく予定である。


※万が一、過去ログをご覧になりたい方のために、リンクを張っておこうと思う。
オルハン・パムック 『雪』より―雪をめぐる断章【1】 第1章 雪の静けさ
オルハン・パムック 『雪』より―雪をめぐる断章【2】 第2章 我が町は平和なところだ
オルハン・パムック 『雪』より―雪をめぐる断章【3】 第3章 アッラーの党に一票を
オルハン・パムック 『雪』より―雪をめぐる断章【4】 第7章 政治的イスラム主義者など、西欧かぶれの政教分離主義者のつけた名にすぎない





第9章 失礼ですが、あなたは無神論者ですか?―自殺など考えない無信心者  より


 この世で私はいったい何をしているのだろう、とKaは考えた。 遠くから見る雪のひとひらひとひらはなんと儚く、私の人生はなんと哀れなのだろうと。 人は生き、やつれ果て、無きものになる。 一方では自分が無きものと想像しつつ、その一方では在るものと考えた。 自分には愛着があり、雪の一片のごとき自らの人生が辿った軌跡を、Kaは愛情と悲哀とともに眺めていた。 父の髭剃りの匂い―それを思い出した。 その匂いを嗅ぎながら、台所で朝食の仕度をしている母親の、スリッパのなかの冷たい足を、ヘアブラシを、夜半にコンコン咳き込んでは目を覚まし、母親に飲まされたピンク色の甘い咳止めシロップを、口にくわえたスプーンを、生活を彩るありとあらゆるそんな小さなものごとを、そのすべてが一体であることを、そして雪のひとひらを・・・・。
  (p.89)

 
 雪の一片に人の一生を重ね合わせ、見上げた雪のひとひらが地上に落ちて消えてなくなる間に、自分の人生を走馬灯のように振り返る。 ほんの短い瞬間に私たちの脳裏に浮かぶ記憶といえば、ほのかな匂いや耳障りな音、ひっそりとした感触やお決まりの味、そしてごくごく見慣れた日常的な風景であり、そんなささやかでありふれた記憶の断片がひとつに合わさって、一度きりの人生を幸福に彩っていたのだと悟ることになる。
 おそらく誰の身にも思い当たる経験ではなかろうか。


 人間の普遍性、相似性を描ききることに心血を注ぐパムックの筆さばきは、ますます冴えわたるようだ。