『ロバの図書館』を読む(3)

                ディミトリスの来訪
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 ギリシャはラリサの町を出たディミトリス・カツィカスは、ある暑い夏の日、アナトリアはウルギュップの町の中心で、アンカラから乗ったバスを降りた。緊張で体が震えている。説明しがたい感情で胸が一杯だった。自分のルーツのある土地にやってきて、幸せではなかったのだろうか?


 60年前、彼の祖父母はこの土地から出て行くことを余儀なくされた。その祖父母にも、そろそろ人生の終わりが近づいていたが、いまだにウルギュップの話を繰り返し、郷愁たっぷりに語って聞かせるので、ディミトリスの意識も潜在意識も、生まれてこの方、祖父母の思い出話に溢れていた。


 年老いた祖父母には、どのような形であれ、帰郷の機会は訪れなかった。祖国をふたたび目にすることはなかった。祖父母は、いつか恩赦が与えられ、祖国に戻れるという希望を抱いていた。だが、恩赦も帰郷も叶わなかった。数年前、一時帰国が許されるようになると、パスポートを手に入れ、出発したのはディミトリスだった。なぜなら、祖父はすでに他界し、祖母もこのような長旅をするには、あまりに年を取りすぎていたのだ。


 正午をすこし回ったところだった。彼の手には、スーツケースに似た小さな鞄があった。あたり一面、妖精の煙突(ペリ・バジャス)と呼ばれる火山性の岩々に囲まれたウルギュップの町の中心を、少しばかり散策した。ここは、本当におとぎ話に出てくる国のようだ。まだ町に入るか入らないかのところで妖精の煙突群を見ては、あっけにとられた。火山性の岩々を掘って作った家々には、なおのこと驚いた。


 現代的に、瓦屋根と、前や横に庭のある家々も建てられている。しかも、否定できないくらい丈の高い建物も造られていた。ただし、このような建物は「妖精の煙突」のある旧市街の外に限られていた。ウルギュップには、そう多くはないにしても、コンクリートまでが入り込んでいた。いまやウルギュップは、小さいながら中央アナトリアの一都市となっていた。ここでは、古いものと新しいものが互いに入り混じっている。通りには、片側に自動車が何台か、もう片側に黒毛のロバが何頭かいる。この両者の間を、人間がゆっくりと、つっかえながら歩いているのだ。旧市街の細路を歩き回っていると、ディミトリスは眩暈がした。このようなおとぎ話の国に足を踏み入れ、うっとりとなっているせいで、もう少しで道に迷いそうだった。


 ディミトリス・カツィカスはテッサロニキ大学で神学と哲学を修めた。いまは同じ大学で助手を務め、文明論と建築史の授業を受け持っている。年は26だ。アンカラから乗ったバスは満席だった。ひとつ後ろの席に、子供をふたり連れ、頭にスカーフをかぶった若い女性が座っていた。アンカラを出発してから、初めは子供たちと、それから若い女性と会話を試みた。はたして、大丈夫だった。これにもディミトリスは驚いた。アナトリアでは、スカーフをかぶった女性はとても信心深く、男性とは絶対に口をきかないと聞いていたのだ。しかし子供というものは、どんな種類の人間ともあいだを繋いでくれる愛らしく小さな橋である。


 はじめ、ディミトリスは「僕のトルコ語では不十分だ。あまり理解できないし、説明もできない」と思い、そのせいで話しかけるのをためらっていた。なので、バスの車輪が回るにつれ、自分のトルコ語が十分なことが分かって喜んだ。トルコ語は、母親と“エカテリーニおばあちゃん”から、ずっと昔、子供の頃に習ったものだ。


 歩き続けて、その名を、評判を何度も耳にしたテメンニ丘に登った。そこでは、管理人のレジェップ氏とおしゃべりをした。まだ自分のトルコ語は不十分だと思っているので、時々「トルコ語では何と?」と訊き、いくつかの言葉は思い出すのに苦労し、やっとのことで思い出していた。


 少し退屈して、管理人のレジェップ氏に尋ねた。
 「どこに行けばマントゥを食べられるでしょう?」


 レジェップ氏には、この質問を言葉通りにとるべきか、とらざるべきか、判断がつかなかった。ウルギュップには、最近になって旅行者がやって来るようになったが、トルコ語を話せる旅行者はほとんどいなかった。この若者はかなり上手に話しはするが、自分の望むところを何でも完璧に説明できるわけではなかろう。たぶんマントゥを食べたいというのは言い間違いだろう。マントゥは、昔ながらの郷土料理で、旅行者は食べない。おそらくなにか別のことを訊きたいのだろう。


 「何のマントゥだい?マントゥは料理なんだが・・・」
 「料理なことは知ってます。どこで食べられますか?」
 そこでレジェップ氏は、少しばかり考えた。


 「一番いいのは、アズィズ・ギュゼルギョズの店に行くことだ」
 「誰ですか、それは?」
 「古道具屋さ。“アズィズ父さん(ババ)”とも呼ばれている」
 「どこですか、お店は?」
 「町の中心だ。目抜き通りにある」
 「歩いて行けますか?」
 「もちろん歩けるさ。ウルギュップは小さい町だ」そう言った後で、レジェップ氏は訊かずにはいられなくなった。いったい、どこの国の人間だろう?そこで尋ねた。「イギリス人?」「いいえ」「フランス人?」「いいえ!」「ドイツ人?」「違います」頭にきて、「じゃあ、何なの?」「ギリシャ人です」吃驚して体が凍りついている。「えーっ!!」なぜ驚くのだろう。もう一度、我々を戦わせたいとでも?我々は仲良くするべきではなかろうか?

                    Ж

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