アーンティ・ネリー/オスマン人に嫁いだあるイギリス女性の半生(16)


§女ひとりで―3


 ドイツ軍が各地で敗北を喫しはじめました。私たちは、ド・ゴール将軍が勝ち進んでいるという吉報をラジオで聞いては喜び、一刻も早い終戦を待ち望んでいました。
 ある夜、ドアが激しくノックされ、開けてみると、マダム・ジャネットでした。アパルトマンの共用電話に私たちあての電話がかかってきたのです。驚いた表情で戻ってきたニーメットの説明するには、ニヤーズィがドイツ軍に連れ去られた、もうどうしたらいいか分からないと、シャルロットが泣きながら訴えてきたそうです。ドイツ軍に商品を渡さなかったのが、捕らえられた理由でした。
 夜が明けるのを待って、私はイギリス大使館に駆け込みました。一等書記官に事情を説明しましたが、心配はいらない、他の大使館にも息子さんの名前を知らせておきましょう、時々立ち寄ってみてください、と言われ、それ以上は期待できそうもありませんでした。ニーメットは、シャルロットと娘のネルミンのいるニースへ向かいました。私は週に二度は大使館に出向きました。ニヤーズィが釈放されたという知らせを受けたのは、38日後のことでした。


 ドイツ軍敗走のニュースが流れると、私もリヨンに旅立ちました。ニヤーズィはベッドにミイラのような姿で横たわっていました。身体が回復するにつれて、ドイツ軍に拘束されたときの状況を、収容先での空腹と恐怖を語りだしました。神経症に罹ったニヤーズィは、何ヶ月もかけた治療の後、ようやく通常の生活に戻ることができました。
 私の縫製の仕事は量が減り、ほとんどなくなりかけていました。とうとうドイツ軍が撤退し、ド・ゴール将軍が凱旋したという知らせがラジオから流れると、朝までお祭り騒ぎが続きました。

 
 ド・ゴール将軍の凱旋パレードをニーメットと見に出かけて戻ると、ドイツ軍によって郵便局に足止めされていた郵便が何通も届いていました。なかにはキャーミルからの手紙もあり、孫娘アイラの写真も同封されていました。
 とはいえ、ドイツ軍の撤退にもかかわらず、戦争はまだ終わってなかったようです。貧困が続き、日に日に配給の行列が長くなっていきました。イギリス大使館からの救済金は、そんななかでは随分と助けになりました。


 キャーミルから手紙が届きました。ローマから投函されていました。イタリア人の妻マリアの故郷であるイタリアに移住することに決めたそうです。もう9年もキャーミルには会っていませんでした。早速、会いにいくつもりでしたが、彼らのほうから訪問してきてくれました。週末にはニヤーズィも妻のシャルロットと娘ネルミンを連れてやってきました。懐かしい家族の団欒に、私は久しぶりに幸せを感じていました。私は、集められるだけの材料でトルコ料理を作りました。
 レイラから届いた手紙には、夫が重い病気に罹っていると書いてありました。回復の見込みのない肝臓癌だそうです。それから間もなくして、婿メフメット・アリ・ジェベソイの訃報が届きました。その後、クズグンジュックの屋敷は売却し、オスマンベイに小さな家を買ったそうです。引越しが済んだら、来て一緒に住むようにと私を誘ってくれました。私も今では、杖なしにトイレにも行けなくなっていましたから、異存はありませんでした。
 パリでの最後のクリスマスにはキャーミルとニヤーズィも来て、一緒の時を過ごしました。私は、必ずイスタンブールに来るようにと泣いて訴えました。子供、孫全員が一同に集まるところを死ぬ前に見たいのだと。


 1947年。年のはじめの寒い日、私は一人きりで飛行機に乗りました。キャーミル、ニヤーズィ、ニーメットは空港まで見送りに来てくれましたが、イスタンブールに一緒に来たがった者は一人もいなかったのです。
 まもなく着くというスチュワーデスの声で、我に返りました。あっという間に4、5時間が経ってしまったのです。私の人生の喜びも悲しみも、努力も苦労も、あの終わりの知れぬ長い歳月も、わずか4、5時間のあいだに振り返ることのできる程度のものだったのでしょうか?