アーンティ・ネリー/オスマン人に嫁いだあるイギリス女性の半生(15)


§女ひとりで―2


 6月の半頃、パリはドイツ軍の占領下に入りました。ヒットラー凱旋門を通る際の歓声をラジオで聞きながら、涙を流しました。
 週に二度、配給券と交換で保存用の食料を手に入れるために、早朝から長い列に並びました。それでどうにか、自分ひとりを養うことはできました。私が一番恐れていたのは、ガスと電気が断たれることでした。
 10年にもわたり同じ地域に住んでいる私には、たくさんの知り合いがいましたが、戦争はその距離をより縮めたようです。互いに協力し合い、配給食料の物々交換は欠かせなくなっていました。戦争は何度となく経験した私ですが、これまではそばに必ず家族がいました。それが今や、ひとりぼっちで異国の地にいるのです。手紙さえ、検閲のせいで私の手には届かないことがありました。
 それ以上に私を悲しませたのは、足の痛みが次第にひどくなっていくことでした。医者は、出産を繰り返したせいで骨が変形しており、治療の施しようがないと言いました。
 夜はどこかしらで爆発音が響き、飛び起きることがしばしばでした。爆発の翌日は決まって水かガスが止まりました。さらに夜間3、4時間にわたって停電するようになり、電化製品の使用は禁止されました。


 冬をどうにか乗り越えました。小さなガスストーブひとつで料理もし、部屋の暖房もしていましたが、次第に湿気がこもり、耐え難いほどでした。私にもできることを何かやらねば、という焦りにも似た思いが募りました。
 ある日、かび臭い部屋から逃れようと外に飛び出した私は、商店街のある建物の2階にかけられた広告に目が留まりました。ドイツ軍が縫製工場を接収してしまったため、フランス軍兵士の下着を自宅で縫うことのできる女性を募集していたのです。外国人のためフランス人の身元保証人が必要でした。ニーメットの夫ダニエルに連絡を取り、必要な書類を手に入れました。それから月に何度か、ロール状の生地が持ち込まれ、出来上がった品物は一週間後に引き取られるようになりました。時々、食料品の援助もしてもらえました。どんなに報酬がわずかでも、働いている間は足の痛みを忘れることができるので、私は昼夜を問わず働き続けました。
 湿気と労働のせいで、足の痛みが耐え難いほどになってきました。鎮痛剤も残りわずかになりました。私は薬なしで我慢できるところまで我慢しようと心に決めました。アメリカ人の友人キャシーのくれたクリスチャン・サイエンスの論文がこのとき役に立ちました。強く祈ることで痛みを軽減することができたのです。


 ある日、思いつめた様子でニーメットがやってきました。もしかしたら妊娠しているかもしれない、なのに夫は秘書の女性と浮気しているというのです。私は、事実かどうか分からないうちから頭を悩ませるのはやめなさいと説得して家に帰しました。
 それから一ヶ月ほど経って、トランクを提げたニーメットが現れ、ダニエルとの結婚は終わったといいました。赤ん坊は流産してしまったそうです。2、3日してダニエルがやってきました。見つけるのに苦労しただろうチョコレートの包みを手にして。ニーメットは断固として会おうとはしませんでした。離婚手続きが済むと、ニーメットの家具や身の回り品の一部は手元に戻ってきました。
 アパルトマンの管理人マダム・ジャネットがある日やってきて、部屋を交換してはどうかと持ちかけました。家賃は少し上がるが、ニーメットとふたりで暮らすには、今の部屋は狭かろうというのです。すぐに私たちは引越しを済ませ、私はニーメットに気遣うことなく夜遅くまで縫製の仕事を行うことができるようになりました。