アーンティ・ネリー/オスマン人に嫁いだあるイギリス女性の半生(14)


§女ひとりで―1


 イスタンブールを離れるのは辛く憂鬱なものでした。戦争の足音が、フランスにまで届こうとしていたのです。唯一の慰めは、娘ニーメットの婚約でした。私は娘が新しい家庭を築けるよう手助けをしてやるために、パリに戻るのです。
 経済的には決して楽ではありませんでした。夫亡き後、何もかもが無に帰してしまったように思われました。それでも、自分自身に対する信頼は失っていませんでした。娘を無事結婚させた後には、私は自分で自分を養っていくつもりでした。
 寒い11月のある日、オルリー空港に降り立ちました。息子ニヤーズィが出迎えてくれました。カイロ大学で学部長になっていたキャーミルは、休暇が取れず来ることができませんでした。
 ニーメットが結婚してしまえば一人きりになってしまう私を、ニヤーズィはリヨンに来るよう誘ってくれました。が私には、慣れ親しんだパリを離れるつもりはありませんでした。その晩の列車でリヨンに戻るため、ニヤーズィは慌てて帰っていきました。


 ニーメットの婚約者ダニエルは、翌日のお茶の時間に大きな花束を抱えて早速訪問してきました。その後も何日かは、弔問客が絶えませんでした。顔を合わせれば口をついてでてくる話題といえば、フランスの情勢についてでした。私が肌で感じられることは、フランスの情勢が芳しくないということでした。今までビストロやカフェから受けていたジャムやケーキ、ドーナツなどの注文が半減しただけでなく、材料の価格も高騰し、調達も困難になっていました。私はできる限り在庫を蓄え、そのおかげでクリスマスから新年にかけての注文をこなすことができ、また売り上げも伸ばすことができました。
 この年、クリスマス・イヴの夜を私は初めて一人きりで過ごしました。翌朝には、ニヤーズィとシャルロットがリヨンから駆けつけてくれました。ニーメットとダニエル、その友達も来てくれました。私は精一杯、種類、量ともに豊かな食卓を用意しましたが、きれいに食べ尽くされてしまいました。贅沢な食卓を用意できるのも、とうとうそれが最後となりました。


 ニーメットとダニエルは、パリの西、ルーアンへの街道沿いにあって工場にも近いアパルトマンを借りることになりました。1940年1月のある寒い日、ふたりは簡素な結婚式をあげました。誰もが困窮していました。戦局は悪化の一歩をたどり、パリが占領されるのも時間の問題と噂されていました。
 ダニエルは徴兵を免れることができました。勤めている工場が兵士の身の回り品を生産している関係で、勤労が兵役の代わりに認められることになったのです。給与は兵士の三分の一でしたが、ニーメットが一人きりで夫の帰還を待つこともなく、失業者になるよりはいいと私たちは喜びました。各地で事業所が閉鎖されていたのです。国境は封鎖され、じきに食料難が始まり、配給制に移りました。


 私はまず、家主に今住んでいる二間つづきの家を明け渡すことを伝えました。そして1ブロック先にあるアパルトマンで、台所と薄暗い庭に面した一間しかない小さな家に引越ししました。家賃もずっと安かったのです。一間に入りきらない家財道具は、整理するより他にありませんでした。
 復活祭の日曜日、ニーメットがダニエルと取り乱したように訪れました。パリはまもなく占領されるので、一緒に来て住むようにと説得しに来たのです。ですが、どんなに説得されようと、私はそこを離れるつもりはありませんでした。別れる時、ニーメットは心配のあまり、まるでそれが最後の別れであるかのように私を何度も抱きしめました。