アーンティ・ネリー/オスマン人に嫁いだあるイギリス女性の半生(8)


§困難な時代-1


 セルビアで起きた事件をきっかけに、再び戦争に突入しました。イギリスの家族は来るのを諦めたと電報をよこしました。初めて、このまま一生会えないのではないかという不安に襲われました。
 食料品のいくつかは手に入りにくくなり、私はイギリス大使館の協同組合でチョコレートや砂糖、クッキー、そして私が紅茶に欠かしたことのないコンデンスミルクを手に入れては食料庫に保存するようになりました。


 秋が来て、子供たちの学校も始まりました。レイラはときどき週末に、一本後の舟で帰ってくることがありました。誰かと会っているという噂を耳にした私は、次の週末コレジの門の前で、隠れるようにして様子を見守りました。門を出てきたレイラは、桟橋の近くで制服姿の人物と話をしていました。それは以前、屋敷にやって来たスェーデン人の少尉でした。わざわざレイラに会うために、毎週末許可をとってやってきていたのですが、まもなく祖国に帰ることが決まっていました。私たちが彼を屋敷に招待すると、彼はレイラと結婚したい旨を打ち明けました。私は、まず戦争が終わり、ご両親の許可を取り付けることを条件とし、その頃、郵政大臣として多忙を極めていたメフメット・アリには、後日報告しました。


 戦争の終結を待ちわびるなか、今度はチャナッカレ戦争(ゲリボルの戦い)が始まりました。春になる頃、敵軍敗走の知らせが届きましたが、同時にトルコ側の犠牲者の数も相当にのぼりました。バルカン戦争で身体の一部が麻痺した伯父の元帥タヒル・パシャの婿も、そんな犠牲者の一人でした。伯父は、優秀な将軍の少なくなった今や、優秀な若い将校に期待していました。中でも婿の学友の一人だったという、セラーニック(サロニカ)出身のムスタファ・ケマルを有望視していました。
 そんな折、イギリス大使館から郵便が届きました。めったに手紙のやりとりをしない兄からでした。それは、チャナッカレ戦争で弟のトマスが戦死したという知らせでした。私の脳裏に、最後に別れた時、まだ14歳の少年だった弟の面影が浮かびました。戦争が拡大し、今や線路も船の航路も閉鎖されていました。イギリスの両親の元に駆けつけるなど不可能であり、両親には長い手紙を書くより他に方法がありませんでした。
 そんな心労の続くなかにも、再び私は妊娠しました。赤ん坊と一緒に喜びがもたらされることを祈りました。
 戦争中にもかかわらず、クリスマスを家族一緒に過ごせる喜びを噛みしめたのもつかの間、年が明けると電報が届きました。父が亡くなったという知らせでした。最後に会ってから17年、あれが終の別れになってしまったのです。
 1916年2月、娘が生まれました。新たないのちの誕生は我が家に喜びをもたらし、迷わずニーメット(神の恵み)と名づけました。


 スウェーデン人アンサーがイスタンブールを離れて1年。レイラは彼と頻繁に手紙の交換をしていましたが、頼りが途絶えて2ヶ月ほどになっていました。ある日スウェーデン大使館からレイラ宛に分厚い封筒が届きました。開けて中のものに目を走らせたレイラは、その場に崩れ落ちてしまいました。アンサーの乗った戦艦がバルト海沖で水雷にあたって沈没し、誰一人助からなかったという知らせでした。

 イギリス、フランスに続いてアメリカが参戦したことでドイツ側は苦戦を強いられることになりました。ドイツ側についたオスマン帝国は、次々と土地を奪われていきました。チフスコレラスペイン風邪と、伝染病が蔓延しました。
 長引く戦争で航海に出られないヤヒヤ船長の給与は半分に減り、私たちの生活もより苦しくなりました。屋敷の大部分を借家にし、私たちはオスマンベイ側にアパートを借りて住むことにしました。
 19の誕生日を迎えたレイラに縁談が持ち上がりました。イスマイル・ファズル・パシャが長男メフメット・アリの嫁にと所望したのです。春になり、レイラはイスマイル・ファズル・パシャの別荘で結婚式を挙げました。婿メフメット・アリは少佐となっていました。