アーンティ・ネリー/オスマン人に嫁いだあるイギリス女性の半生(7)


§オスマン人の嫁として-5


 その頃、イスタンブールではスルタンの圧制に対する反乱が起きていました。スルタンは危険を逃れて離宮のひとつに閉じこもり、街中では狂信者たちが目を光らせているせいで、全身を覆い隠す黒いブルカ以外での外出はできなくなりました。
 そんな中、第二次憲政が公布されました。メフメット・アリは国会議員になっていましたが、時代の空気に危惧を隠しませんでした。1908年の秋には、家族全員、陸軍省の近くにある屋敷には戻らず、海辺の屋敷に留まることになりました。メフメット・アリの危惧したとおり、ある日スルタナーメットで蜂起が始まりました。メフメット・アリは5日間屋敷に戻りませんでした。国会議事堂が襲撃され、略奪、暴行が行われたそうです。


 復活祭がやってきました。海辺の屋敷のあるブユックデレでは、例年ギリシャ人の子供たちが家々を回りお小遣いを集めてまわるのですが、今年、玄関扉はコトリともしませんでした。そんななか、悪い知らせが届きました。スルタン・アブドュルハミットが処刑され、あちこちに絞首台が拵えられ、多数の者が首吊りの刑に処せられるだろうというのです。
 アブドュルハミットの死によって、これまで相当額支給されていたキャーミル・パシャの遺族年金が期待できなくなり、私たちは財産を整理し、空いている家は賃貸しすることになりました。


 私は5年ぶりに妊娠しました。時を同じくしてマクブーレの妊娠も分かりました。1910年5月、ブユックデレの海辺の屋敷で私はふたり目の息子を出産しました。名をニヤーズィとつけました。二十日後、マクブーレにも次女が誕生し、ニハルと名づけました。ところがマクブーレの産褥熱はひどく、私はニヤーズィとニハルに双子のように乳をやり面倒をみることになりました。
 そんな折、メフメット・アリがアレッポの藩主に任命されました。屋敷の管理を家族に委ね、大急ぎで支度をし、4人の子供を連れて出発するのは骨が折れました。私たちの向かう地は安全な場所とはいえず、メフメット・アリにはダゲスタン出身の屈強のボディガードがつきました。私たちは車と船を乗り継いで、アレッポの新居に辿り着きました。噴水のある中庭を持つ、石造りの2階建てでした。ここにはイギリス人やフランス人、イタリア人妻たちが多く住み、私がイギリス人だと聞いて集ってくるようになりました。私はダンスを教えたり、お茶の会を催したりして駐在生活を楽しみました。


 アレッポに来てから2年が経っていました。小さなきっかけで、メフメット・アリのアラブ人の補佐役が、外国人を巻き込んで悪い噂を吹聴していることを知りました。それ以外にもアレッポでは、憂鬱で不安になる出来事が多かったのです。
 バルカン戦争は続いていました。メフメット・アリは、夏が来る前に子供を連れてイスタンブールに戻るよう勧めました。子供4人と私だけの船の旅では、子供の悪戯に肝をつぶすことになりました。ダーダネルス海峡を通るとき、我慢できず甲板に出ました。15年前、初めてイスタンブールにやって来た時のことが頭をよぎりました。


 マクブーレの容態はさらに悪化していました。手術以外に救う方法はないと言われていました。ラマザン(断食月)が始まる前に、至急手術する必要があり、ユダヤ人の医師により子宮摘出手術が行われました。 
 ラマザンが始まると、毎日、断食明けの食事を用意しては、訪れる人だれにでも振る舞いました。これはキャーミル・パシャ時代から続く一家の伝統でした。しかし、今年は例年以上の人が集ってきました。彼らはバルカン戦争から帰還した傷病兵たちで、病院不足から傷が癒える間もなく放り出されたのでした。私は、セラハッティンや手伝い人の手を借りて車庫の2階を整理し、10人近く収容できる病室を用意しました。ガーゼを煮出して消毒し、薬を買って病人に備えました。バイラムが来るまでに20人が回復して病室を去り、怪我の重いものは病院に移り、屋敷に残って奉公したいと申し出る者もいました。


 アレッポのメフメット・アリから手紙が届きました。年が明ける前にイスタンブールに帰るというのです。ベヤズット広場の屋敷を大急ぎで手直ししました。3年間放ったらかしだったせいで荒れ放題の屋敷では、使用人は半数に減り、無数の猫が我が物顔に庭を占領していました。
 メフメット・アリが予定より早く帰ってきたおかげで、クリスマスは家族全員揃って迎えることができました。イギリスの家族にも、クリスマスと新年を祝う手紙に写真を同封して送りました。そして1914年の新年がやってきました。


 マクブーレ・レイラは15歳になっていました。ある晩、メフメット・アリがアンサー・クローニーという名のスウェーデン人の海軍将校をお茶に招待しました。背が高く金髪の美男子でした。お菓子を運んだレイラは、見とれてそのまま椅子に座り込むほどでした。
 子供たちはアメリカン・コレジで寄宿生活を送っていました。ブユックデレの海辺の屋敷のほうがより近いと、4月の半ばにはそちらへ移りました。イギリスの両親と姉が7月の終わりにはやってきて、この屋敷で滞在する予定でした。私はその準備に余念がありませんでした。