アーンティ・ネリー/オスマン人に嫁いだあるイギリス女性の半生(6)


§オスマン人の嫁として-4


 マクブーレ・レイラがようやく6ヶ月になった頃、再び妊娠に気付きました。秋が来て、私たちは海辺の屋敷を引きあげ、ベヤズット広場に面した屋敷に戻りました。私たちが住まうことになる3階を、私は自分の好みで飾りつけました。屋敷での生活にも次第に慣れ、使用人は何をするにもまず私に伺いを立てるようになりました。屋敷を取り巻く環境は、昔ながらの言い伝えや民間信仰に満ちていました。
 4月の初め、屋敷で産婆の手を借りて二人目の娘を産み落としました。名前は、義母の名をとりハフィゼとつけました。黄疸がひどく、少しでも良くなるようにと海辺の屋敷に移りましたが、冷たい海風で発熱し、ひきつけを起こして死んでしまいました。悲しみのなかにも、マクブーレ・レイラの成長と屋敷で次々と起きる出来事に、いつのまにか私は癒されていました。そしてある夏の終わり、私は再び妊娠に気付きました。


 ある夏の宵、義弟ケマルが、仕事仲間や取引する船の船長などを屋敷に招待しました。そのうちの一人であったヤヒヤ船長が義妹マクブーレのことを気に入ったらしく、1週間後には、嫁に欲しいと申し出てきました。ある日の昼食に再び招待されてやってきたヤヒヤ船長は、背が高く緑の瞳をもつ美男子でした。マクブーレは返事を保留しました。


 予定より早く陣痛が始まり、男の子が生まれました。義父の名をとってキャーミルと名づけました。嫡男の誕生とともに吉報も舞い込んできました。メフメット・アリがサルイェル市長に就任したのです。
 さまざまな経緯ののち、マクブーレはヤヒヤ船長に結婚を承諾しました。長い航海に出ることの多い船長がマクブーレを一人にしておくことが、義母は気に入りませんでしたが。ふたりはお屋敷に一緒に住むことになりました。マクブーレの結婚式は、お屋敷で近親者や船長の船の仲間の参列で行われました。


 ラマザン(断食月)が始まりました。毎日、お屋敷では断食明けの食事を用意し、貧しい地区に配りに行きました。何を作るかを決めるのも私の仕事でした。
 キャーミルは7ヶ月に入り、私はふたたび妊娠していました。8月の暑い日の朝、2番目の娘が生まれました。メフメット・アリの祖母の名をとって、セヴデティと名づけました。その頃、マクブーレも妊娠していることを打ち明けました。
1905年の冬は厳しいものでした。市民の間に少しずつ外国人、特にイギリス人への敵愾心が生まれつつあるのが感じられました。2月の末、マクブーレは女の子を出産しました。ヤヒヤ船長の亡くなった母の名をとって、ベルクスと名づけました。


私は大きな屋敷の管理や子供たちの世話で、忙しい日々を送っていました。メフメット・アリも仕事が増え、夜遅く疲れて帰ってくるようになりました。連れだって外出することはほとんどなくなりました。メフメット・アリが今夜は遅くなるといって出かけたある日、義弟のセラハッティンが私とマクブーレをレヴューに連れて行ってくれました。フランス大使館が招待状を送ってくれたのです。休憩時間にいつも家族が利用していた桟敷席を見上げたとき、美しく着飾った女性を伴ったメフメット・アリの姿がありました。何もなかったかのように家に帰っていたメフメット・アリですが、私たちに気付いたのは確かでした。私は沈黙を通し、私たちはその夜について一切触れることはありませんでした。その後、メフメット・アリの夜の予定は激減しました。