アーンティ・ネリー/オスマン人に嫁いだあるイギリス女性の半生(5)


§オスマン人の嫁として-3


 私はお屋敷の中をあちこち散策してまわり、様々な発見をしました。特に目を引いたのは大きな台所で、人ひとり入れるほどの大鍋で毎日数十人分もの食事が作られていました。7、8人いる使用人はもちろん、用事で屋敷を訪れる人たちにもお腹を空かせたまま帰らせるようなことは絶対にしませんでした。それがオスマン人の習慣だったのです。


 夕食には家族全員で食卓を囲む習慣が始まりました。弟たちも妹も、私のことをアーンティ(姉さん)と呼ぶようになりました。家族とトルコ語で話すようになると、トルコ語の教師の必要性を痛感しました。こうしてトルコ語のレッスンも始まりました。身重とはいえ、海辺のお屋敷ではずいぶん楽に過ごすことができました。9月の終わり、すっかり馴染んだ海辺の屋敷を離れるときには辛い思いをしました。


 お腹も目立つようになり、ペラの家から外出することもめっきりなくなりました。その代わり、毎日のように友人たちをお茶に招待するほか、夕食時には必ず誰かしら来客がありました。
3月1日、イタリアン病院で生まれた娘に、義妹マクブーレの名をとってマクブーレ・レイラと名づけました。娘の健やかな成長のために、4月の終わりになると海辺の屋敷の方へと移りました。
屋敷には若干の修繕が必要でした。義母は好きなようにしてよいと言ってくれました。部屋の壁を塗りなおし、寝室の近くにトイレ付きのバスルームを作らせました。私たちはペラの家を引き払い、家具の半数を海辺の屋敷に運び込みました。
 

 マクブーレ・レイラは日に日に成長し、私たちは快適な夏の日々を過ごしていました。義母の連れてきた3匹のワン猫の1匹は妊娠していましたが、生まれたのは純粋なワン猫ではありませんでした。落ち込む義母を慰める私に、義母は自分の過去をはじめて話して聞かせてくれました。母親は、略奪されて連れてこられたトゥルクメン人の娘だったといいます。義母は15歳のとき、突然嫁に行くのだと言われ、着の身着のまま、山越え用として毛布ひとつだけ手に母親から引き離されたのだそうです。反抗は許されなかった、それが山の掟なのだそうです。その後しばらくして、部族間の抗争で父親が殺されたことを知ったといいます。母親の消息を必死になって追ったのですが、二度と消息は掴めなかったそうです。そんな話を聞いた後では、私は義母のことをより理解できるようになっていました。