アーンティ・ネリー/オスマン人に嫁いだあるイギリス女性の半生(2)


§イギリス娘


 私にとって、これは3度目のイスタンブール行きでした。1度目は19のとき。イスタンブールとあの黒い瞳に魅了されました。2度目は1939年、十数年に及ぶパリでの亡命生活の後、恩赦の知らせを受けて、夫メフメット・アリとともに郷愁つのるイスタンブールへの帰郷がかないましたが、夫はイスタンブールのホテルで心臓発作により帰らぬ人となりました。娘ニーメットとともにパリに戻りましたが、第二次大戦が勃発、異郷の地で外国人未亡人として辛い貧窮生活をどうにか凌いできました。そして今。年老い、杖が手放せなくなった私にとって、これが最後のイスタンブール行きになります。飛行機が飛び立つと、私の脳裏には過去のさまざまな記憶がよみがえってきました。
 私の名はエレアノール・ルイザ・ベンドン・ゲレデ。通称ネリー。そう、目をつぶれば、イスタンブールに近づきつつある船の上に私はいました。

 
 私は叔母に同行してイスタンブールへ向かっていました。初めて見る長い海峡。後に血みどろの戦闘の舞台となり、弟トミーがそこで命を落とすとも知らず、緑したたる海辺の風景に酔いしれていました。故郷からずいぶん遠くまでやってきたのです。両親や5人のきょうだいたち、そして縁談の相手マイケルのことを思い出しました。建築家の父は良い教育を受けさせてくれ、両家の子女の通う学校でレディたるべき知識と技術を身に付けましたが、卒業を目前に高熱を出しました。チフスでした。1ヶ月以上経ってようやく回復した時、叔母が気分転換にとイスタンブールへの同行を勧めてくれたのでした。
 1897年8月末、私と叔母は旅立ちました。


 イスタンブールで私たちを迎えたのは、叔母の夫君の友人バーンズ氏でした。長年イスタンブールで商売をしているバーンズ氏のペラ地区(ベイヨール)にある自宅に私たちは居候するのです。アルメニア人のアリス夫人は素晴らしい食卓で私たちをもてなしてくれました。
 ある日、船で汚れたドレスを自分で洗濯屋に出そうと外出すると、店の前で急ぎ足の紳士とぶつかりました。流暢なフランス語で詫びをいう男性のキラキラ光る理知的な黒い瞳が印象に残りました。
 イギリスに帰国する日が近づいていた頃、ヴィクトリア女王戴冠60周年記念のパーティーの招待状を受け取りました。周囲の勧めもあり帰国の日を延期することにしました。パーティーに着たのは、卒業式のために作らせたのに病気で着ることのできなかったトルコブルーのドレスで、それは私の明るい青い瞳によく映えました。
 イギリス宮殿で催されたパーティーは素晴らしいものでした。友だちの一人がガラタサライ高校時代の友人だといってひとりの男性を紹介しました。それがあのぶつかった男性、メフメット・アリでした。ダンスタイムが始まると、彼がダンスを申し込んできました。私の胸は早鐘を打ち、彼の黒い瞳に魅きつけられました。郵政省事務局に勤める彼は、元治安大臣キャーミル・パシャの長男で、父亡き後、若くして家長となっていました。


 帰国の日を翌週に控えた10月19日は、私の誕生日でした。いつものように友人たちとティールームに集まり、控えめに誕生日を祝っていると、そこに偶然メフメット・アリがやってきました。バーンズ氏宅まで私を送る際、彼は翌日のデートの約束を取り付けると同時に、後ほどピンクのバラの花束を送り届けてくれたのでした。
 翌日、待ち合わせのカフェにメフメット・アリは遅れてやってきました。彼はすぐに結婚の意志を明らかにしました。私たちはふたりのことを話し合いました。私たちに残された時間はわずか一週間だったのです。
 翌日、私はベヤズット広場に面するメフメット・アリの屋敷に招待され、家族に紹介されました。その翌日には、メフメット・アリがバーンズ氏宅を訪問し、叔母に結婚の申し込みをすることになりました。メフメット・アリの責任感ある発言と固い意思に誰一人異を唱えるものはいませんでした。こうして私はイスタンブールに残ることとなり、家族には長い手紙を書いて、ことの次第を知らせたのです。