気負いを捨て、いざ再開

 とうとう、5ヶ月の空白があいてしまった。
 現実逃避、といえなくもないだろう。自分が心血をそそいで訳したいと思えるような作品、作家をいっこうに見つけられず悶々としつづけている。そればかりか、翻訳対象として見たトルコ文学そのものに失望している有様なのだから。


 翻訳者といえども一読者、しかも誰よりも作品を深く読みこむことを強いられる人間として、一読して興趣をそそられない作品には、何ヶ月もの期間、それこそ人生の一部を割くなど無理・無駄というものである。
鼻についてたまらないトルコ人好みの大袈裟な比喩表現だな、と自分が思えば、他の日本人読者にとってもそれは同様だろうし、独りよがりで自己陶酔が過ぎると感じれば、多くの日本人もきっとそう感じるだろうと思うのだ。「いくらなんでも、これはないだろう」と自分が苦笑いしてしまうような部分なら、大笑いの末、読み飛ばされるか、呆れて放置されてしまうのが関の山だろう。質の低い三文小説に我慢して最後まで付き合うほど暇な読者は、日本には少ないだろうと思うのだ。
(それ以前に、出版すら覚束ないが)


 一読者として読んで面白く、翻訳者として訳して愉しく、トルコ人作家でなければ描ききれないようなトルコ独自の歴史・風土・生活・文化・精神性を反映したものであって、それでいて同時代性と普遍性を備えたものであり、トルコやトルコ文化に少なからぬ関心と知識を持つ日本の読者の鑑賞にじゅうぶん堪えるものであり、出版社を説得できる程度の知名度を有する作家か、質の高い作品なら・・・・。
 そんなもの、どだい無理というものだ。オルハン・パムックの近年の作品は、このような難しい要求を満たすきわめて稀な例である。
 トルコ語学習者、研究者の増加にもかかわらず、日本でトルコ人作家の作品がほとんど翻訳されてこなかったのは、作品世界、その舞台、描かれている素材がドメスティックで馴染みにくいというだけでなく、表現、言葉遣いそのものがきわめてドメスティック(たとえば、トルコ人受けしそうなあからさまな感情表現や甘ったるい会話表現)なために、繊細で理性的な表現に馴染んだ日本人読者なら辟易してしまいそうな作品が主流を占めてきたからではないか、と思うにまで至った。トルコ文学研究者なら、作品を特色づけている「トルコ性」をかえって喜ぶかもしれないが、純粋に読んで愉しめる、その世界に没頭できるような作品を望む日本の一般的読者には、これが障害となる。翻訳のプロを目指す自分でさえそうなのだ。こうして、日本の読者にぜひ紹介したいと思うような作品に巡り合う―この第一関門をなかなか突破できないでいるというわけだ。


 それでも、最近でいうところのエンタメ系小説ならば、素材、ストーリー展開の面白さ、勢いなどで読ませてくれる作品があるのではないか、と、自身の好きなジャンルでもある歴史・時代小説と、さらに自叙伝・回想小説分野でのブック・ハンティング&リーディングを続けた。いつもの自分のやり方で、試しに冒頭部を訳出してみたり、読了した作品についてはシノプシスの作成を試みたりした。
 しかし、常に同じ壁にぶち当たった。大袈裟で、背中のこそばゆくなるような比喩表現、甘ったるく歯の浮くような感情表現、饒舌すぎて煩わしい情景描写などが何度か繰り返されると、「これは違う。日本人には読めない」という思いに支配され、その時点で先には進めなくなってしまうのがしばしばだった。
 お手軽便利な新古書店など存在せず、それでなくとも(海賊版を除く)書籍価格の高いトルコで、テーマ優先でわざわざ取り寄せて購入した本の多くが完訳に堪えそうもないことを発見した憂鬱な数ヶ月だった。


 しかし、骨折り損にはしたくない。オルハン・パムックやハサン・アリ・トプタシュのように、読むにも訳すにもついつい肩に力の入る純文学系からはいったん離れ、このようなテーマなら自分が愉しんで翻訳できそうだし、日本の読者にも比較的気軽に手にとってもらえそうだ、と考えて購入した本のいくつかを、せっかくなので次回から順に紹介してみたいと考えている。