『白い城』 【7】 P.19〜20 

スルタンの出征




 

 冬はこうして過ぎ去った。 春先になり、何ヶ月も消息を尋ねられることもなかったパシャが、艦隊とともに地中海に遠征していることを知った。 暑い日々の続く夏じゅうを、絶望と怒りに満ちて過ごした私を見ていた幾人かは、現状に不満を持つべきではない、診療でよい金を稼いでいるではないかと言った。 もう何年も前にムスリムに改宗し結婚したかつての一奴隷は、私に逃げるよう勧めた。 仕事に役立つ奴隷を、私にやったように上手く引き止め、国に帰る許可は決して与えないのだそうだ。 その男のように私もムスリムになれば、自分自身を自由にすることができるだろう。が、それだけのことだ。 この話は、おそらく私の心中を探るためにしたものだろうと考え、逃げようなどという意図はまるでないと答えた。 意図なんかではない、勇気がなかったのだ。 逃げようとした皆が皆、そう遠くへ行かないうちに捕まっていた。 その後、棒叩きの目に遭ったこの不運な者たちの傷に、夜、牢獄のあちらこちらで膏薬を塗ってやっていたのは、この私なのだから。


 秋になる頃、パシャが艦隊とともに戦役から戻った。 大砲を撃ってスルタンに敬意を表し、去年やったように、街中を喜び沸き立たせようと努めた。 が、明明白白だった。このたびの戦役では、散々な季節を過ごしたらしいことは。 牢獄には捕虜がごくわずかしか捕らえられていなかった。 後で知ったのだが、ヴェネツィア軍は六隻のトルコ船を炎上させたらしい。 何らかの方法を見つけて、捕虜たちと話してみよう、おそらく故国からの情報が得られるだろう、と思っていたのだが、そのほとんどはスペイン人だった。 無口で、無知で、臆病な奴ら。 助けを求めることと食べ物をせびること以外に、何かを話せる状態にはなかった。 中でひとりだけ、私の注意を惹く者がいた。 そいつの腕は無くなっていたが、希望は失ってなかった。 先祖のひとりが同じような冒険を経験しており、後に助かり残ったほうの腕で騎士小説を書いた*1こと、自分も同じことをするために助かってみせると話していた。 後に、生き延びるために物語をでっち上げてきた何年もの間、物語を現実のものにするために生き延びることを夢見ていたこの男のことを思い出した。 それからあまり経たないうちに、牢獄で伝染性の病気が広まった。 看守たちを賄賂攻めにすることで自分を遠ざけることに成功したこの不吉な伝染病は、奴隷たちの半数以上を死に至らしめ、過ぎ去っていった。


 生き残った者たちは、新しい労役に駆り出されるようになったが、私は行かないで済んだ。 夕方戻って話して聞かせてくれたのだが、はるか金角湾の一番奥まで行かされているそうだ。 そこで建具職人、仕立て屋、塗装屋等の指図に委ねられ、手仕事をさせられているというのだ。厚紙で船や砦や塔を作るために。 後になって知ったのだが、パシャが息子の嫁に大宰相の娘をもらうことになり、豪華な結婚披露宴を支度してやるつもりなのだそうだ。


 ある朝、パシャの屋敷から呼ばれた。 喘息がふたたび始まったのだろうかと思いつつ屋敷に向かった。 パシャは忙しく、待つようにと私は部屋のひとつに通され、そこで腰掛けた。 少しして部屋の向こう側の扉が開き、部屋の中に私より五つ、六つ年嵩の男が入ってきた。 その顔を見て私は驚き、途端に恐ろしくなってしまった。






 

*1:ご存知、スペインの国民的作家セルバンテスのことであろう。セルバンテスレパントの海戦(1571年)で負傷し左腕の自由を失ったが、その後も冒険を重ね、後に代表作『ドン・キホーテ』(1605年)を著した。