『白い城』 【5】 P.15〜17

カスムパシャの眺め


 
 
 イスタンブールには、見事な凱旋式とともに入港した。 少年スルタンも見物していると聞いた。 マストというマストの先端には軍旗が掲げられ、その下には我々の旗、聖母マリアの絵、十字架が逆さまに提げられ、ならず者たちに下から好き放題に矢で射させた。 そのとき、大砲が天地を轟かせはじめた。 後年、陸の上から悲哀と倦怠と悦楽とともに何度となく眺めることになるこの式典は相当長く続き、陽に当たって倒れる者も出た。 夕方頃、カスムパシャ*1に碇を下ろした。 スルタンに献上するため、我々は鎖をかけられた。 兵士たちは、笑いものにするため甲冑を反対に着せられた。 船長や将校たちの首には、鉄製の輪が嵌められた。  我々の船から奪い出したラッパやトランペットを嘲笑と愉悦とともに吹き鳴らし、わいわい楽しみながら我々を宮殿へと連れて行った。 沿道を埋め尽くした市民は、興奮と好奇心とともに我々を眺めていた。 スルタンは、我々の前に現れることなく、自分のものとなった捕虜たちを選り分けた。 我々もガラタ地区に連れて行かれ、サドゥック・パシャ*2の牢獄に押し込められた。


 牢獄は最悪な場所だった。 狭く陰湿な小房で、何百人もの捕虜が汚濁の中で腐りつつあった。 私は新たな職業を実践するために、どんどん患者を見つけ、幾人かは回復させてやった。 背中や脚の痛む看守たちには処方箋を書いてやった。 こうして私はまた他の者たちとは区別され、陽の光の入るいい独房をあてがわれた。 他の者たちの状況を見て、自分の置かれた状況に感謝するよう努めていたのだが、ある朝、他の者たちと一緒に私は叩き起こされ、働きに行けと言われた。 私は医者で、医学と科学の知識があるというと、笑いものにされた。 パシャ所有の庭園の壁を高くする作業を行っているのだそうで、人夫が必要なのだという。 朝、まだ日が昇る前に鎖に繋がれ、我々は街の外に連れて行かれた。一日中、石を集めた後、夕方再び互いに鎖で繋がれて牢獄に戻るとき、イスタンブールが美しい街であることを、しかしここでは人は、奴隷ではなくエフェンディ*3であらねばならないと思ったものだった。


 それでも私は、並みの奴隷ではなかった。 牢獄で朽ちていく奴隷たちだけでなく、今では、私が医者であると聞きつけた他の者も診てやっていた。 診療費として受け取った金の大部分は、私をこっそりと外に出してくれる奴隷番たちや看守たちに渡さざるを得なかった。 彼らから免れた金で、トルコ語の授業を受けていた。 教師は、パシャの細々とした用事をみている年老いた、人のいい親爺さんだった。 私がトルコ語をまたたく間に覚えてしまうのを見ては喜び、じきにムスリムになるだろうとも言った。 授業料は毎度毎度がっぽり取られた。 食べ物を運んでもらうためにも、彼に金を渡していた。 自分の身体には気を遣おうと心に決めていたからである。

 
 霧に包まれたある晩、牢に奴隷番がやってきた。 パシャが私に会いたいのだという。 驚き、興奮し、すぐに身支度を整えた。 故国の敏腕な親戚たちの一人が、たぶん父が、たぶん将来の舅が、釈放金を送ってくれたのだろう、そう考えていた。  霧の中を、クネクネと折れ曲がった狭い小路を歩きながら、突然我が家に着いてしまうのではないか、あるいは家族たちが、夢から覚めるようにして私の目の前に現れてしまうのではないかと思っていた。 時々、誰かを、何かの方法を見つけて仲介者とするために送り込んできたのであろう、とも思っていた。 同じ霧の中を、すぐに私を船に乗せ、故国に送り返してくれるのだろうと。 しかし、パシャの屋敷に着くと、そうやすやすとは助からないだろうことが分かった。 そこでは、人々が爪先立ちして歩いていたのである。

*1:金角湾の北東岸に位置する地区。エルドアン首相の出身地としても有名。

*2:「はじめに」であらかじめ断わってあるように、メフメット4世時代の宰相リストには、サドゥック・パシャの名は見当たらなかった。その代わり、1878年にアブドゥルハミド2世(II.Abdülhamid)に仕えた宰相として、メフメッド・サドゥック・パシャ(Mehmed Sadık Paşa)の名が見える。

*3:Efendi:本来的な意味は「紳士」「教養人」であり、高い教育を受けた者に対する尊称であったが、オスマン時代には上級官僚、役人の一部に冠せられる称号として一般化されていた。