『白い城』 【4】 P.13〜15

ガレー船2



 
 当時、私は、母親からも婚約者や親友たちからも、他の名前で呼ばれる別の人間だった。 かつて私であった、あるいは今そのように思うその人物を、時折ながらいまだに夢に見、そして汗をびっしょりかいては夢から覚める。 褪めた色合いを、後に何年も私たちが創作してきた、それ*1の存在しない国々の、いまだかつて生息したことのない動物たちの、信じ難い武器の数々の、幻想的な色合いを思い出させるこの人物は、23歳だった。 フィレンツェヴェネツィアで「科学と芸術」を勉強したといい、天文学、数学、物理と絵画に詳しいという自信があり、当然のように自惚れの強い人間だった。 自分以前に成された事柄の凡そを完璧に呑み込み、そのいずれに対しても口を尖らせていた。 自分ならもっと上手くやれるだろうということに疑いを持たなかった。 変わっていた。 自分は誰よりも賢く創造性があると分かっていた。 つまりは、ごく普通の若者だった。 私が何度もやったように、自分の過去をでっち上げる必要に迫られた時など、情熱の対象や将来の計画、世界と科学について恋人と語り合い、婚約者が自身に夢中になるのをごく当たり前に受けとめるこの若者が、私自身であると信じるのは耐え難いことだ。 が、いつか、私の書いたこの文章を辛抱強く最後まで読んでくれた小数の人たちなら、あの若者が私ではないことを分かってくれるだろう、そう自分自身を慰めている。おそらく我慢強いそんな読者たちなら、私が今考えているように、大好きな本を読んでいた時に人生という物語に空白をあけざるをえなくなった若者が、立ち止まった箇所からいつの日か物語の続きを始めたのだと考えてくれることだろう。


 接舷係*2が私たちの船に足を掛けようというとき、私は本を長持ちの中に仕舞い、外に出た。 船は最後の審判の時を迎えていた。 全員が外に集められ、服を剥ぎとられ丸裸にされていた。 一時、私の脳裏を、その混乱に乗じて海に飛び込む考えがよぎった。 しかし、背後から弓矢で射られるに違いない、すぐに捕えられ殺されてしまうに違いないと思った。 だいいち陸にどれほど近いかさえ分からなかった。 最初のうち私は誰からも手をかけられなかった。 鎖を解かれたムスリムの奴隷たちは、歓喜の雄たけびをあげていた。 何人かは早速、鞭打ち係への復讐に躍起になっていた。 少しして私は船室にいたところを見つかり、中に踏み込まれ、身の回り品を略奪された。 金製品目当てに長持ちの中を引っ掻き回された。 蔵書のいくつかと、身の回り品すべてを奪われた挙句、手元に残った一、二冊をぼんやりと弄っていた私は、別の一人に捕まえられ、船長のうちの一人の元に連れて行かれた。


 ジェノヴァ出身の改宗者であることは後に知ったのだが、船長は私には丁寧に応対してくれた。 お前は何について識っているかと尋ねた。 漕ぎ手にされないようすぐに、天文学の知識があり夜でも航路を見つけることが出来ると言ったが、関心を持たれなかった。 それで今度は、手元に残った解剖学の本を頼みの綱に、医者であると主張した。 少しして連れてこられた腕の折れた者を見て、外科医ではないと言うと、腹を立てられてしまった。 櫂に連れて行かれようとしていたところで、私の本を見た船長が尋ねた。 お前は尿と脈拍について少しは分かるのか、と? 分かると答えると、漕ぎ手にされるのを免れたばかりか、残った一、二冊の本も救うことができたのだった。


 しかしこの特別待遇は、私には高いものについた。 漕ぎ手にされた他のキリスト教徒たちは、たちまち私を憎んだ。 できるものなら、夜一緒に閉じ込められていた船倉で私を殺していたことだろう。 だが、トルコ人とたちまち関係を結んだために、私を恐れてもいた。 杭の上に座らされた*3弱虫船長は死んだばかりだった。 鞭打ち係は鼻や耳をそぎ落とされ、見せしめになるようにと筏に乗せ海に流された。 解剖学の知識ではなく、知恵を働かせて治療を施した幾人かのトルコ人の傷が自然に塞がったために、皆私のことを医者だと信じた。 私が医者ではないことをトルコ人に告げ口した一部の嫉妬深い敵でさえ、夜になると船倉で私に傷を見せるのだった。

*1:o=それ、が何を指すのか、現時点では分からなかった。読み進めるに従って、これは明確になると思う。

*2:当時の海戦において、舷と舷をぶつけ合い、船上での戦いにもつれ込んだ際、真っ先に敵船に乗り込む、あるいはそれを舷側で防ぐ戦闘要員。

*3:いわゆる串刺しの刑。