『白い城』 【1】  P.7〜9

スルタン・メフメット4世




  はじめに



 この手記は、1982年のこと、毎夏一週間にわたり中に籠ってほじくり回すのを習慣としていたゲブゼ*1郡庁所属のあの廃物「古文書館」で、勅令、登記簿、裁判記録や公的台帳類と一緒にギュウギュウに詰め込まれた埃だらけの箱の奥底で見つけた。 夢を思い出させるような青色のマーブル模様を纏った上品な装丁がしてあり、読みやすい文字で綴られ、色褪せた国家文書の間でキラキラと輝いていたために、たちまち私の注意を惹いたのだった。 察するに外国人の手だろう、本の第一頁に、まるで私の関心をもっと惹こうとするかのように題名が書かれてあった。 「蒲団屋の義理の息子」 それ以外の題名はなかった。 周囲と頁の空いた場所に子供の手で、ボタンのたくさんついた服を着た頭の小さい人間が描かれたその本を、たちまち私は大いに楽しみつつ読み始めた。 たいへん気に入ったが、ノートに写しとるのさえ面倒だったため、若き郡庁までが「古文書館」というのをためらうあのゴミ捨て場から、私を監視下に置くにはあまりに礼儀正しい用務員の信頼を悪用して、手記を瞬く間にカバンの中に押し込んで盗んだのだった。


 最初の頃は本をもう一度、最初から読み返すことより他に、何をすべきかほとんど分からなかった。 歴史に対する私の疑念はいまだに続いていたために、手記の学問的、文化的、人類学的、あるいは「歴史的」価値よりもっと、著者の語る物語そのものに関心を抱きたかった。 このことが私を、物語の著者自身へと誘うことになった。 友人たちと共に大学を離れなければならなくなったため、祖父の職業である百科事典編纂の仕事に戻った。 私が歴史部門の責任者になっているある「有名」百科事典に、本の著者に関する項目を設けようという考えが、このとき頭に浮かんだ。


 こうして、百科事典よりも酒量よりも増えた時間を、私はこの仕事に費やした。 当時の歴史的基礎資料に照らしてみると、物語に登場するいくつかの事件は、それほど事実を反映していないことにたちまち気がついた。 例えば、キョプリュリュ*2の5年間におよぶ大宰相職の間に、イスタンブールで大火が発生したという。 しかし、記録に値する病気、とくに本にあるように広範囲にペストが流行したという証拠は一切なかった。 当時の何人かの大臣の名前は間違えて書かれ、何人かは名前を混同され、また何人かの名前は変更されていた。 最高占星学者たちの名前についていえば、宮廷の記録で示されている名前とは一致していなかった。 しかしこの点は、本の中でも特別な箇所になることを考え、こだわらないことにした。 その一方で私たちの歴史「知識」は、本の中の事件を大体において立証していた。 小さなディティールにおいてさえ、ときにこの「正確性」を見出せた。最高占星学者ヒュセイン侯*3の殺人を、スルタン・メフメット4世*4のミラホル離宮でのウサギ狩りを、ナイマ*5と同じような形式で物語るように。 学問と空想を好んだと思われる著者が、物語のためにこの種の歴史資料やその他の山ほどの本を手直しし、それらからなにがしかを採用したのかもしれないと思うに至った。 知りあいだというエヴリヤ・チェレビ*6のおそらく作品だけを読んだのであろう。 他の数々の例にも見られるように、その反対もまた真実でありうると考え、物語の著者の足跡を見つけるという希望は断たないように努めた。 しかし、イスタンブールのあちこちの図書館で行った調査の結果、私の希望の大部分は水泡に帰した。 1652年から1680年にかけてメフメット4世に献上されたとされる全ての論文や書物のどれひとつ、トプカプ宮殿図書館でも、そこから分散したかもしれないと考えた他の何箇所かの図書館でも見つからなかった。 唯一の手掛かりが見つかった。 物語に出てくる「左利きの書家」の他の作品が、これらの図書館にあったのだ。 しばらくはそれらに没頭したのだが、とうとう嫌気がさした。 私がさんざん手紙の雨を降らしたイタリアのいくつかの大学からも、希望を打ち砕くような返事が返ってきていた。 ゲブゼ、ジェンネットヒサール、ウスキュダルの各墓地で、著者の本そのものから抜き出した、しかし上には書かれていない著者の名前を頼りに行った調査も失敗に終わった。 著者の足跡を追うのは諦め、百科事典の項目を物語そのものを頼りに書き上げた。 恐れたように、この項目は印刷されなかった。 しかし、学問的証拠がないからではなく、語り手が十分に有名だとみなされなかったためである。

(後半につづく)

*1:イスタンブール県の東隣、コジャエリ県に属し、イスタンブールとの県境に接する郡の名。

*2:幼くしてスルタンの位についたメフメット4世の側で、1656年から1661年まで大宰相職をつとめたキョプリュリュ・メフメット・パシャ(Köprülü Mehhmet Paşa:158?-1661)のことだと思われる。

*3:Müneccimbaşı Hüseyin Efendi:1650年没。

*4:IV. Mehmet:1642-1693。在位1648-1687。6歳にしてスルタンの位につく。別名「猟師」メフメット。

*5:Naima:1652-1715。オスマン帝国における初の公式書記官で、オスマン時代の歴史家の中で最も有名な人物。優れた知能と几帳面な仕事振りで高く評価された。

*6:Evliya Çelebi:1610-1682? 25歳頃からおよそ50年間にわたり、オスマン帝国内をはじめ周辺諸国への旅での見聞をまとめた『旅行記(Seyahatname)』を著した旅行家・作家。