『白い城』に挑戦してみる

BEYAZ KALE


 

 2006年度ノーベル文学賞受賞作家であるオルハン・パムックOrhan Pamuk*1の作品世界を、どうのこうの言える立場にはない。「トルコ人にも難しい」といわれる彼の作品を初めて手に取ってみる勇気が湧いたのは、ノーベル賞受賞が発表されてようやく数日後のことであった。
 「翻訳してみよう」などというばかげた野望は、その時私の頭の中にはなかった。いったい彼の作品のどこがどうなのか、私に読めるものなら読んでみよう。そんな風に、単純なる好奇心からである。
 
 近所の書店のトルコ文学の棚には、拍子抜けするほど小さく白い紙に、「ノーベル文学賞オルハン・パムック」の文字。発注が間に合わなかったのか、どの作品も3、4点ずつ揃っている程度である。
 パムック作品の多くは300頁、400頁を越す長編で、価格も20YTL(約1,600円)を上回るものばかり。頁数と価格の両方に恐れをなした私は、その中からもっとも薄い一冊で、かつ登場人物や時代背景に馴染みを持てそうな作品、『BEYAZ KALE (白い城) 』(1985)*2を選ぶことにした。

 
 彼の代表作『BENİM ADIM KIRMIZI (私の名は紅) 』に関しては、面白いという評価と難解だという評判を同時に聞いていたので、恐る恐る最初の数頁を読み出したのだが、やはり現代作家である。単語、言葉遣いは平易で、長文傾向がある他は、意外なほどに読み進めやすい。古典的で格調高く、捻くりまわした文体なのかと勝手に想像して尻込みしていたが、同世代であることといい、欧米文学の影響を強く受けていることといい、陰影を帯びかつクールな描写といい、著者―語り手―登場人物の入れ子構造的仕掛けといい、村上春樹ともどこか似通ったものを感じる。要は、私の好む文体だということである。
 案じていたより平易な第一印象に騙され、調子に乗って翻訳を試みることにしたが、じきに難解な展開に頭を抱えることになるのかもしれない。読解より翻訳の方が何倍も難しいのだから。

 
 『BEYAZ KALE』は、日本ではどう紹介されているだろうか。
 「17世紀のイスタンブールを舞台に、捕虜のイタリア人青年と、彼を買い受けたトルコ人研究者の関係を追い、異なる文化間での人間のエゴや個性の変遷を描いた」 という紹介記事が、ほとんどのメディアに登場したようだ。ちなみに作品の巻頭に記載されているパムックの経歴には、「ヴェネツィア人の一奴隷とオスマン帝国の学者の間に生まれる関係を説明する」とある。
 翻訳の過程であらたな解釈を見出すことも、私にとってひとつの楽しみである。

 
 しかし、途中で挫折することなく、どこまで翻訳作業を続けることができるだろうか。まったくもって自信がない。
 このブログを偶然訪れた方の中には、パムック作品あるいは彼本人に並々ならぬ思い入れを抱いてらっしゃる方もいらっしゃるだろう。翻訳者の卵の卵が、しかも練習台にするとは何事ぞと、お怒りになったとしても仕方がないことである。
 また、すでに『私の名は紅』『雪』というふたつの大作を翻訳された和久井路子女史と張り合う気など毛頭ないことも、あらかじめお断りしておこうと思う。和久井女史の訳をいまだ拝読できていないことは、私にとって幸運である。

*1:日本では彼の苗字を「パムク」と紹介しているが、私は、原音になるべく忠実に「パムック」としたい

*2:İLETİŞİM YAYINLARI/Çağdaş Türkçe Edebiyat Dizisi, 198 sayfa, ISBN975-470-454-6